スルース


シネスイッチ銀座にて公開初日。72年のオリジナル版「探偵スルース」は、たぶん子どもの頃の「お昼のロードショー」を最初に、何度か観た。



老いた推理作家アンドリュー・ワイク(マイケル・ケイン)の邸宅を、自称俳優の若者マイロ・ティンドル(ジュード・ロウ)が訪ねる。作家の妻と男女の仲である彼が離婚を迫ると、ワイクは「妻と別れて欲しければ、私の提案に乗らないか」と持ちかける。


登場人物は二人、舞台はほぼ全て室内。「探偵スルース」では、作家アンドリュー・ワイクの屋敷も彼に従う第三の登場人物と言ってよかった。今作では垣根の迷路やオートマタに代わり、手下のように動く監視カメラと、おそろしく生活感の無いインテリア、移り変わる照明がその役を務める。
また、「探偵スルース」の映像が舞台を見ているようなかんじであるのに対し、今回はカメラ越しや入れ替わり立ち替わりなどの凝ったアングルが多く、始めのころは二人の姿をじっくり見たいと思うあまり落ち着かなかった。


冒頭、マイケル・ケインの声が、聴き慣れたふうではないので驚いた。年のせいかな?と思ったけど、そうではなかった。「ゲーム」が進むにつれ、あの声になってくる。
ケイン様といえば、私が一番に思い出すスチールは「狙撃者」で銃を構えて上から見下ろしてるアレ。あの顔はやはり、ああいうふうに下から見上げて堪能したい。
今作のジュード・ロウも、銃を構えた姿を下から煽ったカットがあったけど、彼の場合は、見上げられたほうが魅力的に感じられる。最後にそういうカットがあり再確認した。
熱っぽく見上げる顔のほうが様になるジュードの場合、どうしても「がんばってる」感がオモテに出てしまうため、オリジナル版に漂う「妙」な雰囲気はない。ピエロ姿にならなかったのも残念…だけど、あれだって彼が着たら面白くないかもしれない。
(あまり関係ないけど、マイケル・ケイン版「アルフィー」について昔書いたメモ。この可笑しなせつなさも、彼だからこそ出るもの)


若者にあって老人にないものとは何か。肌の艶、あまい生命の熱と匂い、そして体力。



「(窮地に立たされたマイロ、助けを乞い)彼女はあなたを誠実な人だと言っていた。その心に興奮(excite)させられると」
「…性的にという意味か?」
「分からない…それは聞いてない」
「…身体については、何か言ってたか?」
「いや、とくに…」


後半、二人の男はオリジナル版とは異なるレールを走り始める。これも前作にはないやりとり。マイロに命じて梯子を上らせ、下らせ、体力をふりしぼらせるワイクは、思うように動けなくなった自分の代わりに彼の身体を使って遊んでいるかのようだった。
殺すのは簡単。しかし屈辱を与え誇りを保つため、彼等は身一つで頭脳を振り絞り対決する。


一つ疑問だったのは、最後の一幕において、素足のジュード・ロウが水槽や酒瓶を平気で割っている点。緻密に計算しているようなのになぜ?と思わされた。



「男の心を知るには、まず屈辱を味わわせることだ」