バッグに札束

明治十一年にジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」が翻訳された。これを読んだある日本人識者は「要するにすべてを金で解決する話だ」と言ったと伝えられている。たしかに、主人公の教授はいろいろな文明の利器を準備したり、危機を脱出するために金を使ったりしている。そもそも彼が冒険に出るのは、八十日間で世界が一周できるかを、友人と賭けたためだった。動機からして金絡みなのである。だが、冒険さえも「金がすべて」であるところに、「八十日間世界一周」や「宝島」の真価があった。そこにあるのは実効性や合理性を重んずる近代精神だ。
   (謎解き 少年少女世界の名作/長山靖生 ASIN:4106100223


日本人の「冒険」には経済感覚がない。私的な利益のためでなく「やりたいからやる」のが冒険なのだ、とされている(その感覚を一言で表すのが「バンカラ」)。その非合理的な大義名分が、ときに独善的な侵略や戦争をひき起こすのだ…というのが著者の主張。


さて、「八十日間世界一周」の原作では、主人公のフィリアス(謎の資産家)は賭けに勝ったお金と同じくらいの費用を旅行で使い、金銭的な利益はほとんど得ていない。愛する女性とめぐり会えたことが幸せだと思っている。
とはいえ、読後感としては、たしかに金で何でも解決している印象を受ける。でも「金を使って他の人がやれないことをやる」というのも、冒険だからね。ヴェルヌの時代には、バッグひとつに金をつめこんで世界を駆け回るなんて、誰も考えなかったのだろう。


今回の映画版「80デイズ」(昨日の日記参照)で、ジャッキー・チェン扮するパスパルトゥは、主人に冒険を勧める際、お金や見返りのことには触れない。そもそも彼自身が旅に出かけたいのは「故郷に仏像を返すため」(!)なのである。主人のフィリアスも、利益のことなど考えない。そして、その道中は、原作は勿論、オリジナル?のデビッド・ニーブン主演映画「八十日間世界一周」('56)よりも「金にあかせて」度はずっと低い。
パスパルトゥの真意を知ったフィリアスが、(自分はここから一人で行くから)「これで彼女をフランスに送ってやれ」と分厚い札束を渡すシーンは印象的である。彼が「札束を他人に渡す」(のを私達観客が見る)のはこのシーン、つまり「友人」のために金を遣うときだけなのだ。
現代において(この映画の舞台は19世紀だけど)、金をばらまきながらの世界一周なんて目新しく面白いものではない。そのために主人公を「(世間知らずの)発明家」としてヒネったんだろうけど、その発明が旅に活かされる場面が少なかったのが、ちょっと物足りなかった。
なんとなく思うところあったので、冒頭の文章を引用してみました。