俺らのマブダチ リッキー・スタニッキー


ピーター・ファレリーの新作は、終盤ある人物が言うように「これぞ物語」で面白かった。コメディは、あるいは映画は全てそうなのかもしれないけれど、要素の組み合わせが物を言う。また男達がつるんで女達から逃げる話かと見ていたら(ジョン・シナ演じる物真似芸人ロッドが最初に披露するのがオーウェン・ウィルソンの真似というのがまた、そういうのやりそうだから。いやうんこしっこ映画には出ないか)「場違いなやつ」の話へ、そして「親友」の話へと着地して、冒頭の設定はこれらを描くためだったと分かる。

ディーン役のザック・エフロンとリッキー・スタニッキーことロッド役のジョン・シナの目はこんな色だったんだ、同じ色なんだなと初めて気付いて妙な気持ちになっていたら、これは最低の家に育った男のウソを最低の家に育った男が真実にする、「リッキー・スタニッキー」の元に男達が幸せになる話なのだった。キーワードは男同士のケア。誰にでも本当のことを言うロッドが唯一隠していたのが…聞かれなかったから嘘ではないのかもしれないけれど…親友が出来たようで嬉しいという気持ちだったというのが泣きどころにして笑いどころ。

一つには本物・偽物って何だろうというファレリー兄弟らしい話でもある。リッキー・スタニッキーことロッドがそのままの彼でもって対人関係でもビジネスでもうまくやったのを思うと(彼にとって大切なのは「人に好かれること」)、人は自分を発揮できる場所にいるとは限らないということが描かれているんだと思う。いい場所を見つけたら名前ごと引っ越してしまえばいい。

ワイティティの『ネクスト・ゴール・ウィンズ』を先日見た際、クライマックスを「語り」にするのに何てセンスがいいんだと胸が躍ったものだけど、本作のロッドに不審な電話が掛かってくるが…のオチも大変に好み(クライマックスじゃないしあまりにくだらないけど)。主役を支える二人に加えラビ役のジェフリー・ロスなどコメディアンが遍在しているところもよい。

ゴールド・ボーイ


丁度見終わったドラマ、コロンボをオマージュした『ポーカー・フェイス』(2023年アメリカ)同様ある殺人から時間を遡る冒頭。終盤まで隠されたある真実はモノローグ(後にある目的のための「日記」と分かる)で予想がつく。東静(松井玲奈)と東厳(江口洋介)が東屋で向かい合う画に二人の過去が見え、「おれは他の女と来たことはない」「巌くん(だっけ?呼び方)はだめよ」との会話でそれが確認できる。省略の妙に未読の原作小説は長いんだろうなと思うのと同時に、筋書きの忙しさと引き換えに味気なくなる作品も多い中この映画はそうじゃないなと思う。

しかし映画が始まるや高年夫婦の女性の方の「写真なんて嫌~歳取ってるから」に何だこりゃと思わせられたのを始め嫌な感じの紋切型も多かった。「かっとした男が物にあたる」描写を重みなしにお決まりで取り入れるのも好きじゃないし(岡田将生演じる東昇の二度のそれは彼を表しているとしても)父親が養育費を払っていないことをうやむやにするのもよくない(意識の浸透していない今の日本ではその重大さが見逃されてしまう)。それはいとこ同士で恋仲だった二人を演じる松井玲奈江口洋介の年齢差にも繋がっている。女の役者は歳が行くにつれ役がなくなるというのは今尚そうなんだなと思う。それは紋切型の描写と根が同じ。

(以下「ネタバレ」しています)

私としてはこの映画の面白さは、ラストシーンで朝陽(羽村仁成)の頭上を飛ぶ戦闘機…から遡っての、例えば地方の経済が土地の資産家でもっているということゆえの警察による隠蔽などの大人の汚さ、いや汚さじゃ済まない罪の数々が、少年には悪事のエクスキューズだったんじゃないかとも見えるところにあった。そんななか終盤朝陽が浩の方を全く見なくなるのと最後に夏月の瞼を閉じてやるのには彼にも俗に言う「人の心」があるんだと思わされたものだけど、小説や本国のドラマにもああいう描写があったのだろうか。冒頭子ども達がむさぼるように食べた台所のパンが、黒木華演じる朝陽の母が工場から持ち帰ったものだと分かった時になぜだか作中一番ぐっときた。

リトル・リチャード アイ・アム・エヴリシング


ミュージシャンよりも、リトル・リチャードを知っていた人や当事者などの「ファミリー」、加えて専門家が多数登場してその伝説をクィアネスを踏まえて語り直す内容。「怖がられないようクィア要素を強調するなんて奇妙に聞こえるよね」、後年伝道師に転換して「主は私の同性愛を治してくれた」などと言うようになったリチャードに対する当事者の「迷惑を被った」「気持ちは分かる」といった声、こうした複雑さを少しでも理解しようとする努力が今、必要なんだと思う。「自分の伝説を何度も書き換えた」背景に何があったのか。

「エルヴィスの次はパット・ブーンだ」と訴えるリチャードの顔から始まる文化盗用の…終盤専門家が言うには「抹殺」の話。逮捕されるとNegroエルヴィス・プレスリーなどと新聞に書かれ、「黒人のミュージシャンはチャートから消えた」と『のっぽのサリー』を歌うポール・マッカートニーとリチャードの映像が交互に映される。ビートルズが身体の一部である私はまずここで少々の居心地の悪さを覚えるけれど、それを体験するための映画である(更に私は別に白人じゃないというねじれもあるわけだけども)。自分は毎日ちゃんと、色んな意味での「通行料」を払っているかなと。

リチャードも笑い交じりに言っていた「通行料」は幾ら払っても払い足りず払い続けなければならない。死んでしまった人は映画に出られないから、君が創始者だと楽屋まで言いに来たエルヴィスのエピソードが語られたりナイル・ロジャースが「誰かの真似をしたいと言ってきたのは彼だけ」とボウイのことを話したりする。ボウイについては、そのスタイルにそもそも誠実さのセンスというのがあるんだと思う。また作中に使われている1988年グラミー賞の映像は当時リーゼント姿の別名でレコードを出していたデヴィッド・ヨハンセンが「おれの真似じゃないか」と言われるのに始まるけれど、ヨハンセンも真似でうまく遊んでいた人だよなと不意に思い返した(だからあそこで困惑させられて当然なわけ)。

リチャードが影響を受けたシスター・ロゼッタ・サープはピアノやギターを叩いて興奮を高めていくスタイルと語られていたけれど、インタビュー映像内のリチャードが家に祖父のピアノがあったけどおれは弾けなかったからめちゃくちゃに叩いてたと話しながらやってみせるのに、ピアノはやっぱり打楽器でもあるんだなと感動した。「五月雨」から始めた私はあんなの勿論やったことがなく、無性にやってみたくなった。パット・ブーンに真似されないようスピードを速めたとの言葉の後に改めて聞くボーカルで圧倒されたリチャードのリズム感あってのものだけども。子ども時代のエピソードとして、ピアノの音があんまりうるさいのでよくキッチンの窓から覗いたものだと近所の人が話していたのが面白かった。

地球は優しいウソでまわってる


初めて手掛けたフィクションをいまいち気に入らないエージェントに「今は色んなエスニシティと競わなきゃいけないからね、難民とか癌患者とか」と言われたベス(ジュリア・ルイス=ドレイファス)が妹サラ(ミカエラ・ワトキンス)と共に母を訪ねての席で「うちのお父さん(彼女には義理の父)の虐待も言葉だけじゃなけりゃね」などとこぼす(母にたしなめられる)のがいかにもホロフセナー作品だなと思ったけれど、今回は、馬鹿だの出来損ないだのの言葉で人を傷つけることが一見ちっぽけなこのドラマの根底に本当の悪として置かれている気がした。そのことを軽く見ている二人目のエージェントとの場面の空気感が絶妙。

ベスと夫ドン(トビアス・メンジーズ)が23歳の息子エリオット(オーウェンティーグ)の初めての戯曲の第1稿を1部ずつ手にしてベッドに入り読み始めるのが映画の終わり。セラピストのドンやインテリアデザイナーのサラ、彼女の夫で役者のマークまで、その「仕事」の内容はちらと映され門外漢の私にも何らかの感想は持てるが(そして誰もに認められるやり方などないと伝わってくるが)、肝心のベスの著作とエリオットの戯曲については伺い知れない(後者のタイトルは「無題」)。「それ」は問題じゃないということだ。

インテリアデザイナーのサラの「世界が崩壊しようといいカシミヤを手に入れたい」、物書きのベスの「周囲がどうなってもナルシシスティックな世界が私には大事」なんてセリフ、なかなか言わせられるものじゃない。後者のそれを壊して笑って認め合っての終盤のお祝いディナーの場面のあまりの幸福感に、小さな人間関係を育てることを続けようと訴えるのがホロフセナーの映画だなと改めて確認し、ここへ来て何が大事か考えてみたという意味でカウリスマキの『枯れ葉』と少し通じるところがある監督作だとふと思った(エリオットが働く店の警備員にもそういえばアキ作品を思い出させるものがあった、珍しく)。

FEAST 狂宴


フィリピンの日常を収めたドキュメンタリーのような冒頭の映像ではのんびりしていた音楽が事故が起きるや悲劇的なものに変わるのに、一瞬の不注意で多くの人生が変わってしまうことを訴える運転者向けの講習ビデオを見ているような気持ちになるが、次第に奇妙な感じを覚える。その理由は登場人物が従っている何かが私(の属する文化)にとっての「普通」ではないからで、レストラン兼屋敷のご馳走の数々で表され、上から下へ流れるその元に一家の父に息子、元はウエイトレスだったという母、使用人らが集っている。ご馳走に価値を見出さない裕福らしい元妻のグループだけがそれになびかない。

映画の終わりに出るのは『ルカによる福音書』の「命は食物にまさり、体は衣服にまさる」。章が変わるごとに示される「肉を食べて争うより青菜を食べて笑い合う方がよい」「宴には体の不自由な者や貧者を呼ぶといい」(以上曖昧)といった文とは逆のことが実際には延々と行われている。夫の生命維持装置を切るのに苦しみ謝罪した妻を除いては、あるいはこれも含めて、神は利用されるのみ…と私には見えたけれど信仰とはこういうものなのかもしれない。息子の罪を被って逮捕された父は「家族の元に早く帰るため」に刑務所内で『ルカによる福音書』を読み聞かせ(「口に入れればなくなる食べ物よりも…」)を行い、息子は告解し血のついた、あるいは血をつけた手で死んだ男の妻に告白することで救われ、映画は彼が心ゆくまでご馳走をむさぼるのに終わる。

件の事故は私には「力のある者(大きな車)は力のない者(トライシクル)を僅かな行為で殺してしまう」ということの比喩のように見えた(尤もここではトライシクルのバイクを運転していた父親が突然転回するのも原因であるのが絶妙)。すぐに血を洗われたフォードはなおも家族が使い、夫(父)を殺された使用人一家が使い、映画の最後の日も変わらず停まっており何やら不滅なものの象徴のようだ。このあたりは車映画というか車に重ねて人間を描く(この映画とは違うことを描いている)パオロ・ビルツィの『人間の値打ち』(2013)を思い出した。

アメリカン・フィクション


これでどうだと自棄もあっての社会運動のつもりで垂れたクソが「馬鹿をすることが金になるアメリカ」では祭り上げられ、「いかにも黒人だ」と言われたあげく世に出て大金になるというお笑いと、主人公モンク(ジェフリー・ライト)の「黒人らしくない」がハードな現実が並行して進むのがうまい。「『多様性』要員」として文学賞の審査員に呼ばれたあげく黒人2名に対し白人3名の「黒人の声を今こそ届けなければ」との意見でそのクソが選ばれるなどという茶番が間を埋める。

モンクは「敵」を見る目で普段より観察している黒人向け番組を元に、すなわち同じ「インテリ」でもシンタラ(イッサ・レイ)のアプローチとは真逆のやり方で小説を書く(「私達はプロだからさわりを読めば分かる」と言う彼女はその小説につき「魂がない」と述べる)。白人に邪魔され途切れたシンタラとのやりとりを経て黒人の子が白人の人形を選ぶドール実験の写真を見たモンクはあれはクソなんだとちゃんと世に言おうと決意するが、複雑さを解しない白人製作者に求められ再度垂れてみたクソがやはり受け入れられる。黒人に「死」を求める世界はそうそう変わりはしない。しかしモンク自身は変わっている。その、彼の目の前に新たに現れた複雑な世界を見せることが目的の作品のように思われた。私自身の属性に引き寄せて言うなら、「女も男もない」と言う「女」と「女と男は違う」と言う「女」が手を取り合う世界。

生計のための教職を解かれたモンクが久々に帰ったボストンの実家では、彼が「捨てた」とも言える女三人が暮らしている。妹リサ(トレーシー・エリス・ロス)を亡くし、母(レスリー・アガムズ)を高齢者施設へ送り、家族同然の家政婦ロレインに結婚で家を出て行かれ彼は一人になる。別荘の向かいに一人で暮らすコラライン(エリカ・アレクサンダー)と恋人のようになり、母親の引っ越しや見舞いなどに公選弁護士の仕事が忙しいと言っていた彼女も常に付き添うようになるが、諸問題に悩まされているとはいえ当初からモンクの態度は私には随分なものに感じられた。「揚げ足取り」じゃない非言語的なふるまいも。そして「映画の中の彼女ならぼくを受け入れてくれるかも」という類の彼のクソは誰にも認められることはないのだった。

マダム・ウェブ


孤独を感じていた女四人が家族になり「未来は『まだ起きていない』」ということを武器に闘うようになる…という前日譚なわけだけど、お話はもとより細かい描写の数々が面白かった(映画にはそれこそが大事)。タハール・ラヒム演じる悪役エゼキエルが登場するやハニートラップの類を仕掛けたり、20年前にコンスタンス・ウェブの近くにいる名目が「護衛」だったり(男の中には女を守るという名目を悪用する者がいる)。

超人的な肉体を持つ相手と予知能力でどう闘うんだと思っていたら、救急車の運転席で登場するカサンドラ・ウェブ(ダコタ・ジョンソン)が手近なタクシーや救急車を奪ってエゼキエルに突っ込んでいくのが面白い。個人所有の高級車に対する(エゼキエルはスーツを着れば車なんて必要ないが)誰でも乗せるイエローキャブや救急車が活躍する映画だと言える。AEDの使い方も見どころ。

エゼキエルの見る夢のくだりに未来は決まっているものじゃないのかと思っていたら(こうした要素のある作品の殆どがそうじゃないと分かっていても)、『クリスマス・キャロル』を見ていたカサンドラが窓にぶつかる鳩を助けるくだりでそうじゃないと彼女と私に分からせるタイミングがいい。未来を予知できるなら映画で私が今見ているのは何なのかという戸惑いもダイナーの一幕で解ける。

カサンドラは前から三人の少女を「知って」いたが本当に知ってはいなかった。中指を立てた、病院でこちらを見ていた、家賃を払えずにいた彼女達にはそれぞれ事情があった。誰しも背景があるという話である。一方でエゼキエルは誰にも助けてもらえなかった。

三人を見捨てないと決めたら何をするかって、早朝から叩き起こしてまずは枕で心臓マッサージの練習、すなわち自分の技術の伝授(それは自分に返ってくる)。マティに「悔しいけど教えるのが上手」と言われていたけれど、確かにカサンドラの言動は、ラストシーンで三人に話す内容からしてもなかなか教師っぽい。エゼキエルの最期を前にしてのセリフ「あんたの悪魔は三人じゃなく私」もいわば憎悪を引き受ける感じでかっこよかった。