テルアビブ・ベイルート


オープニング、私にはいかにも丁度よいスピードで、かつては線路だったという道に車を走らせる二人の女。その後の物語を見ているうち、それは死ななければ国境を越えられない世界において愛と共に自由にあるためにはどちらに行くでもない、ほかでもない国境の上をゆくしかないということを言っているかのように思われた(そのようなことはできないし、そういう場面ではないと分かっても、それでも)。

母が幼いタニアに聞かせる「杉の国」レバノンの物語の、転んだ娘がどこへ行ったか分からないという結末は、子の疑問に親が答えられないことを暗示しているようだ。爆弾はどこから来るの?と聞かれてもここは大丈夫だと安心させるしかないのだから。「行方不明の人」の顔の貼紙、遊んではいけない相手。

そのような理不尽な環境では、愛する人とほんの少しでも離れていることが大変なストレス、辛苦になる。この映画が一番に訴えているのはそれであるように私には思われた。ゆえに手に届くところに帰ってくればの喜びもひとしおであり、その双方が続けて描かれる冒頭の母と姉妹のダンスシーンが素晴らしい。一方で待つのに疲弊した妻は「隣」に心を置くようになる。

東京国際映画祭の上映作のうち、希望や楽しさがあるのはこれだけという気がなぜかしてチケットを取ったんだけど、「確固たる戦争」に苦しめられる人々の話なので辛いことばかり。しかし女二人が自分達を痛めつけるものを直に見てやろうとばかりに紛争地帯へ車を走らせる僅かな道中、ひととき笑いが生まれる。タニア(ザルファ・シウラート)はミリアム(サラ・アドラー)の口から、消えた少女の魂はどこにあるかを聞くのだった。

サポート・ザ・ガールズ


普段ならそういうことは思わないけれど、この従業員ほどの年の女性が見たらどう感じるかなと考えた。オーナーのカビー(ジェームズ・レグロス)がいの一番にあげるルール「NO DORAMA」をマネージャーのリサ(レジーナ・ホール)が無視する理由、その責任は彼女達の側にはないのだから積極的に無視すべきだということが若い頃にはまだ分からず女の間で齟齬が生じるという話、それでも…という話に私には見えたから。

シングルマザーのダニエルに言わせればNo dorama girlとはシフトに人種が絡んでいると指摘したリサがクビになるのに抗議しないってこと。それについては(世間で言う「女性問題」が実際は「男性問題」であるように)彼女ではなくカビーに問題があると誰でも分かるはずだけど、それ以外の「ドラマ」についてはどうだろう、およそ女の子達に問題があるわけじゃないと分かってくれているだろうか。

リサが雇用前の者を働かせる違法行為をしてまで集めたお金を、それを必要としている当のシャイナは「私がばかだったから」とばかな彼氏に流してしまう。プロテクトしても「誰が助言なんて頼んだ」と言われる。彼女ら位の年齢だった頃より今の方が、例えば私は少しは賢く、同時に幸せになった。昔は自分に嫌なことばかり起こる理由が分からなかったから不幸だった。幸せになったそのぶんで何かしなきゃと思う、怒るってことも十分含めて。

近くにオープン予定の全国チェーンのブレストランには「個性的」な女の子は雇われない、あるいはその個性は消されるだろう。「うちの奥さんは君のママより手ごわい」に「キモ!」と返すのは勤務外でも許されないだろう。考えるだにこの業態だからこそ大変なのだ、従ってそれに抗うリサの行為はある意味この世で最も大変なのだと思わずにいられなかった。それでも、女の子達を死に向かわせないためにその精神は死んじゃいけない、ものだった。騒音の中なら叫んだって構わない、何にも影響を及ぼさないから、というのが彼女らなのだから。

冒頭ダニエルが常連客のジェイに「(何かしたら)殺すぞ」と言う場面など、他の映画なら笑える空気をまとっていることもあるがここにはない。正しいことだが、マンブルコアとはそういうものだからなのか、そういうことをしたくないからマンブルコアなのかは分からない。映画の終わり、屋上の泣き声についての彼女の「太ってるって言われたんじゃない?」は「くそみたいな仕事」をするもの達によるいわば自虐ジョークに響いて胸に刺さった。

バビロン


1980年のサウスロンドン、ジャマイカ系移民二世の青年達。レゲエの知識が皆無なので見ていて分からないことだらけだったけど、レゲエ仲間といっても相当色んな奴がいる、色んなことをしている奴がいるということを描いた後でのガレージでの、一枚のレコードで皆が一体となる時間、その後に空気が変わる瞬間、その中の一人ブルー(ブリンズリー・フォード)がナイヤビンギのリズムに高揚したアイデンティティを破壊され底の底まで沈み込む時、全てがずっしり胸にきた。

集まって騒いでいる自分達を「くろんぼ」と罵った近所の白人を殴りに行こうとするビーフィー(トレヴァー・レアード)を、ブルーは「喧嘩したら奴らには応援が来る」と必死で止める。これこそマジョリティが無知ででかい顔をしていられる理由だ(今の私はどっちの側でもある)。全体が個人に味方するから。だから仲間は白人を騙して路地裏へ連れて行き、ぼこって奪って応援が来る前に放置して逃げ憂さを晴らす。警察の車に追われ袋叩きにされたばかりのブルーはそれを胸を痛めて見る。

ガレージの中は個人の集まりだが扉の外には全体があり、騒音について文句を言われる場面でも始めは皆笑っているが白人女性が踏み込んでくると社会全体の空気が流れ込み変化が現れる。だからめちゃくちゃにされたガレージで、ビーフィーはロニーに扉を閉めるよう言うのだ。作中最も印象的なのがこの、ブルーの友人にして白人のロニーの「『おれが』やったのか」。確かにそうだがその言葉は意味を成さないどころか害である。悪循環の一番悪いところがここに押し寄せている。

最近では『ドライビング・バニー』がロードムービーを謳いながら立て篭もりの映画だったものだけど、ほかにもあるしこの映画もそう、どこかに立て篭もるはめになる、というか追いやられる、追い詰められる人々の話だと言える。最後にはガレージじゃない、サウンドシステムバトルの会場に警察が非常口を打ち壊してなだれ込んでくる。

ブルーがマイクを取って歌う歌の内容に、彼の弟には学校に行きたくない理由があったのかもしれないとふと、やっと思う(理由がなきゃいけないわけじゃないけども)。冒頭路上で兄が弟を抑え込んでいるのを白人女性が止めに入る場面には笑いよりもそのねじれた構造に困惑の息が出てしまうが、弟も長じれば兄のようになるのだろうかと見ていると、息子が「賢いサルは要らない」とクビにされた整備工場を「いい職場だった」と言う一世の父親が母親に手をあげているのを息子は反面教師にしているようで、恋人の女性が土曜の夜に留守にしていたのを「殴ってやりたい」とエレベーターの壁に拳をぶち当てて済ませるのだった(それも全然暴力だけど、まあ40年前だから)。ここにもまた、全体の中で個人が惑う様が見えるようだった。

アメリカから来た少女


冒頭四人がやって来る、カビが生え、電球が切れ、手狭で暗いそこは全く家ではない。一応それまでの主であった父親(カイザー・チュアン)は一人での食事に慣れ茶碗を持てばかきこむばかり。母親(カリーナ・ラム)は彼とうまく寝られず13歳のファンイー(ケイトリン・ファン)は妹ファンアン(オードリー・リン)とうまく寝られない。それぞれの辛苦の後に終盤アイスクリームを食べての母とファンイーの「『また』来ようね」「えっいいの」に次第に「家」が成立してきていると分かるが、一番子どもであるファンアンが「家に帰りたい」と言う時、それはSARSによって叶えられない。

遠い昔にアメリカ映画を見ていてふとアメリカ人は物を両手で受け取らないんだと気付いたものだけど、アメリカから台湾に戻ってきたファンイーは担任教師からノートを渡される際に片手だけ出して注意される。終業のチャイムに鞄を出して帰り支度を始めればクラスで浮いてしまう。彼女にしてみればアメリカで母親に「よくあれ」と言われそちらの文化に馴染んだのに理不尽極まりなく、なぜ自分を連れて行ったのか、いつ戻れるのかと「今」以外にしか頭がいかない。母親は乳癌の術後の辛さに「家族さえいなければ」とまで口走ってしまうが、保護者会で初めて娘の境遇を知り啖呵と言うほどじゃないけれどあることを言い放って出ていく。あまりに響き合う母と娘が少しずつ歩み寄っていく。

I Hate You Momとのブログのタイトルに「弁論大会のテーマは『最も影響を受けた人』、やってみる?愛と憎しみは表裏一体」と提案する担任教師の慧眼と思い切りのよさにぐっとくるも(それにしても、言語にはその言語の使い方があるから直訳すればいいというものじゃないけれど、タイトルが日本語字幕の「ママなんて大嫌い」ならこんな提案が出来るか難しいところだ)、授業の内容はともかく彼女は体罰につき否定はしない。「2003年の台湾」においては教員のそんな態度もありえたのかもしれない。「愛と憎しみは表裏一体」といったことは普遍的な問題で、体罰の是非といったことは時代によって変わる問題であり、後者の変化によって前者を抱えた者が苦労するのかもしれない、というようなことを考えた。

愛する人に伝える言葉


映画は医療従事者のミーティングの様子に始まる。医師のエデ(ガブリエル・サラ)をファシリテーター及び指導者として、音楽やお菓子を楽しみながら参加者が思いを口にし助言を受けるというケアが行われている。あまり見たことのない場面で素晴らしい。彼らに比べたら全く過酷なわけではない私の仕事にもこういう場があったらなあと思わせる(しかしその時間をどこに取るんだとも思う)。

映画は陽射しの中、風光明媚な山道を姪の結婚式に車を走らせる非番のエデにバンジャマン(ブノワ・マジメル)の死を伝えた看護師が電話を切った後ろ姿に終わる。私にはそれがまたオープニングに繋がるように思われて、その円環に映画の作り手エマニュエル・ベルコの医療従事者への敬意を感じた。「その事実が起こるのは患者」ながらも、これはバンジャマンが最後には「ここが家だ」と言う病院を舞台とした群像劇なのだと。

エデはバンジャマンに対し「何も隠さない約束だ」と暗に息子のことを告白するようぎりぎりまで迫る。後のバンジャマンの弁護士への「息子を捨てたから…また捨てることになるから」との言葉から「正しかった」と分かるが、門外漢の私にはこのやり方は際どくも見える。しかし本作然り、近年割と目につく「身近な者の踏み込んだ言動がよい結果をもたらす」映画の数々には、かつてのそうした作品に比べ確固たる裏付けがあるように感じられる。結局のところ踏み込みは必要なのだ、でもそれには不可欠なものがあるのだと言っているように思われる。

一方で演劇を教えるバンジャマンが学生達に「舞台上のエロティシズムは素晴らしい」と語りながら付ける冒頭の練習のいわば正当性は私には全く分からない。面白いのは、実際に医師であるサラが演じている病院でのミーティングこそ現実と同じやりとりが行われているであろうに、バンジャマンと学生による演劇後のディスカッションの方が生々しく時にドキュメンタリーのように見えるところだ。彼が指導する「永遠の別れ」と彼自身と人々のそれとの対比には、演劇とは何かが窺えるようで唸ってしまった。そして死の瞬間、カメラは「おれが死んでも世界は何も変わらない」、それは全く悲しくはないということを映すのだ。

マイ・ブロークン・マリコ


遺灰をあんなふうに撒き散らすはめになるこの物語を数多作られてきた男の遺灰映画と比べた時、これは女を物扱いする家父長制への反抗であるシスターフッドそのものの話だけれど、そう言いたくないというかそう言うのが悔しい。それが強く(作り手によっても読者や観客によっても)語られるほど、言葉が一人歩きして元凶への意識が薄れてしまう気がしてやり切れない。

原作漫画ではおまけ的に添えられていた不動産屋でのエピソードが、映画ではオープニングタイトルに使われている。高校生の頃のシイノ(永野芽郁)の「家出てえなあ」とマリコ奈緒)の「今すぐがいい」、それに続く中学生の頃のマリコの「(くじで)旅行なんて当たっても行けないし」とシイノの「そうだよな」では切実さが全く違うということが、見ている私達にはまだ分からないがシイノにはもう長年、痛いほど分かっている。

助けたい、助けなきゃ、それこそがシスターフッドそのものでありシイノが「めんどくさい女」だと思っていたマリコと離れられなかった理由だろう(しかし「どうしていいか分からなかった」し、結局どうにもできなかった)。一方で飛び散った遺灰への「キラキラしてて」などから、何と言おうかマリコそのものの魅力にも惹かれていたんだと思う。映画で演じた奈緒には説得力があった。

映画で付け足された屋上での線香花火の場面で、マリコは「シィちゃんはいなくならない」と言う。これは「シィちゃんから生まれたかった」を補強するもので、頼れる大人のいなかった、心配せずに過ごせる時間などなかった(「何もない日なんてないの」)マリコにとってシイノは「理想の保護者」でもあったことが分かる。「シィちゃんに彼氏ができて私が一番じゃなくなったら死ぬ」と言いつつ自分は彼氏ができれば連絡を断ってくるという、元よりいかにもありそうなことが余計にリアリティを増す。

シイノが終盤助ける女子高校生と既にバスで出会っていたという映画オリジナルの要素は、とりわけ「かっこいい男子」を肴にわいわい騒いでいる女子達との対比など不必要だと思った。これは高校時代に文集の「友達が多い人」に選ばれていた、まさに男子の話を毎日していた、数日に一回は痴漢被害に遭っていた私の感想である(助けられたことはこれまで一度もない。この物語のあれは奇跡だと私達は知っている。奇跡じゃないようにしなければと思いつつ)。フルフェイスヘルメットで顔の見えない犯罪者(これは漫画でも同様)と「顔がある」被害者という対比でもあるのかもしれないけれど、生身の人間が演じる映画で難しいとはいえ加害者の方こそ顔を見せろよと思う。

まりがおか岬は東京とは真逆の場所だ。マキオ(窪田正孝)の「半年前、僕も飛んだんです」を踏まえると、漫画では軽いギャグだったのかもしれない「ナリタ商店」の文字が、そんな彼を受け入れた人がいたということを表しているように思われる。「したいからしてるんです」と言う彼はシイノの同類で、目の前にいる人を助けるためには「手を取る」いや「掴む」ことが確実なのだと知っている。最後のシイノの「大丈夫に見えますか」は、そう、人に言ってもらって安心できることってある、シイノの心の中のマリコの「『お前が悪かったんだ』と言って」にも似ているが違う、こう使われるべきだったという正しい変奏なのだ。

ゲット・クレイジー/フリップト

特集上映「サム・フリークス Vol.20」にて音楽の楽しい二本立て。


▼『ゲット・クレイジー』(1983年アメリカ、アラン・アーカッシュ監督)は、ロードショー公開中の『ロックンロール・ハイスクール』(1979年アメリカ、同監督)を見て臨めたのが幸運だった。ほぼ同じもの…敬意あるライブシーンと、こんなの面白くね?…で出来ているこの2本は、二、三十年ぶりに別々に見るより短期間のうちに続けて摂取することで面白さが効果的に吸収できるから。作中最初に映る女性が『ロックンロール・ハイスクール』では校長だったメアリー・ウォロノフで、ピンクの(他の皆がTシャツのところ)モヘアっぽい服だったので、似たのを着てくればよかったと思う。

「今は68年じゃない、82年、もうすぐ83年になる」とのセリフがあったけど、「80年代初頭はまだ70年代」とはよく言ったもので(岡崎京子などの言)、隅から隅まで「70年代」に満ちている。『ロックンロール・ハイスクール』では体育の時間に見事な体操の技を決めるモブ女子達が印象的だったけど、こちらでもステージなどでいわば本物の体操が見られるのが面白い(何なんだろう、あれ。身体能力の高い女子に魅力があるとされていたとか?)。これらは私には『トップ・シークレット』のダンスシーンを思い起こさせるんだけど、『ゲット・クレイジー』の翌年に製作されたそちらはもう「80年代」に感じられる。同世代でも映画出身じゃないZAZの方が先に進んでいたのは不思議といえば不思議だ。

冒頭犬が蹴り飛ばされるカットに、80年代の終わりまでは動物を粗末に扱うギャグが多かったなと思い出す(いつからあったのかは分からない)。私は死体ギャグとこの動物ギャグが大好きなんだけど、公開中の『ブレット・トレイン』にも前者はまだあったのに後者はもうどこにもない。尤も「明らかに人形」「元気でした!カット」「仲間の復讐」とこの映画のような文脈があってももう見る気はしないかな。昔はマジョリティがギャグ職人としての気概でやっていたマイノリティギャグやジョークを今なら当事者がやらなければ変、というのにも似ている。


▼『フリップト』(2010年アメリカ、ロブ・ライナー監督)は、前説で岡さんが映画を見るばかりじゃなく大事にしなきゃならないと話してくれたヒューマニズムそのものという感じの一作。監督が後に同じ要素を用いて作った『最高の人生のはじめ方』(2012)の一億倍、繊細で力強い。ブライス(カラン・マッコーリフ)が冒頭に言うことに「1957年から62年、それからの一年」の話で、1962年が舞台の『ダーティ・ダンシング』(1987)から映画を見始めた私にとっては、変な言い方だけどアメリカ映画の前哨戦めいてもいた(ちなみに今回の二本立てでは共に『ダーティ・ダンシング』で使われた曲が流れる)。

ウェンデリン・V・ドラーネンによる同名小説が原作とのことで、小説でも映画でも活きる手法による構成がまず素晴らしい(たまに見るこの手法は私にとってはいわゆるSFなどの設定を凌駕している)。道一本隔てた二つの家の二人の子どもが、「恋」に惑わされながら互いを意識して育っていく。同じ時間がブライスとジュリー(マデリーン・キャロル)それぞれの立場で交互に語られ、私達も人々の未だ見ぬ内面をより想像するようになったところへジュリーが「そういえば私達は話をしてこなかった」「これが始まり」と終わる。最初のエピソードのとある状況につき、どれだけ長く続いたのかと思いきや「一週間」。そんな年ごろの二人である。

祖父チェット(ジョン・マホーニー)の「誠実でいることだ、始めは苦痛だが最後には救われる」はブライスの父(アンソニー・エドワーズ)にこそ誰かが早いうちに言ってあげられればよかった。ジュリーの第一印象を「空気が読めない」などとしていたブライスの方が彼女を幾度も傷つけてしまうところにこの言葉の正しさが表れている。級友のように「一線を超えた」くそならどのみちやることなすこと全てがくそとなるが、多くの人間は境界にあり、間違いながらやっていくものなのかもしれない。