最近見たもの


KCIA 南山の部長たち

序盤、イ・ビョンホン演じるキム・ギュピョンの「アメリカが注視しています」との進言に、ドラマ「ミスター・サンシャイン」を思い出した(その後も諸所で)。アメリカと日本の顔色を窺わないと生きてこられなかった国の物語なんだなと。「あのころはよかった」「あのころはよかったです」とでかい机の分を隔ててそれでも閣下(イ・ソンミン)と彼が日本語を交わすのは、二人が日本の何らかの概念に惹かれていたということを表しているのだろうか。

裏切りのサーカス」は男たちの涙のわけの物語だったけれど、こちらは男が涙でもって目覚める話。閣下の「わたしの本当に欲しいもの」とは煙草に火をつけるライター、すなわち自分の目の前の欲を満たすためだけのものだったとキム・ギュピョンが知ってからの、びしょ濡れでの「あいつどうしたんだ、おれのこと睨んだりして」への涙。アメリカ大使は閣下につき「長年就いてるんだから子どもじゃないだろ」と返したものだけど、子どもだった、ギュピョンはそのことを思い知らされたのだとも言える。この二つの場面が白眉。

ドラマ「ミセン」でイ・ソンミン演じるオ課長が新人に害を与える気に食わない奴にすることは「脚を引っかけて転ばせる」。それくらいしか出来ないという含意もあろうけど「?」と思っていたものだ。でもこの映画を見ながらふと、韓国人にとり体を使って怒りを表現するって、映画内の演出ではなくそもそもが特別なことなのかなと考えた。



▽羊飼いと風船

姉が妹の本を火に投げ込むのにあっと声が出てしまった。躊躇なく拾った妹が指に火傷すると、姉はさっと薬を塗る。この場面が最もよかった。ここに私が見たのは、齟齬がある中、女先生がこの姉に、姉が(最も「身分が高い」はずの)妹に、つまり女が女によかれと思って心から助言する姿。相手がその通りにしなくても助ける姿。だけど自分だって余裕が無くなったら?目を陰にした妹と口を覆った姉の作中最後の行動となる。

避妊について相談するのに「女先生(医師)でなければ」と言うドルカルに男先生が「世界は進んでるのに君達は進んでないんだな」(字面だと上から目線みたいだけどそういう感じじゃない)。本作では医学の世界は単純に進歩的なものとして描かれているので、変な言い方だけど羨ましい気持ちが湧いてしまった。日本のうちらが婦人科に行くとき男性より女性の医者を選びたく思うのは、この映画の彼女と全然違う理由だ。もし医学に属する全てが実に単純に「進歩的」というだけなら、うちらも進歩的になればいいだけで、お医者は誰だっていい。そんなことを考えてしまった。

この映画は女性の受けるあれこれをそんなに掘り下げてないとも言える(だから羨ましいだなんて!思ってしまうのだ)。そういうところを狙ってはいないんだろうというのは見ていて分かる。



▽聖なる犯罪者

序盤に想起した「プリズン・サークル」が、振り返るとやはり重なる。この映画で一番響いたのは「犯罪歴のある者は神学校に入れない」とのセリフだったから。仲間の「子どもにも厚木をプレゼントしろってのか」しかり、木を切るのが嫌だというんじゃなく、新たな道をゆく選択肢が無いことが問題なのだ。

印象的なのは、司祭に納まったダニエルのやることなすこと全てが少年院で学んだ内容だということ。以前に何かを学ぶ機会が無かったとまず窺える。神学校への道は断たれているのだから、持っている物を吐き出し続けるしかない。期間が短いこともあってか自身が苦しんでいる様子はなかったけれど、見ていて辛かった。

インプットの機会の無さと並行して在るのが、ダニエル自身も口にした、称賛されたいという欲望。警官と分かるや自分も口調を改めたし、司祭と言えば少女も見る目を変える。皆が自分の話を聞き一斉に目を閉じる。この快におちてしまう。それに抗うために勉強が必要なのに、それが出来ない。私にはこれは、そういう矛盾を描いた映画に思われた。作り手が言いたいのはそういうことじゃなさそうだけども。

平日&週末の記録


食事シーンの多いドラマ「賢い医師生活」今シーズンを見終えようという前と後に作ってもらったメニュー。
韓国じゃ家では作らないというジャジャン麺だけど、大久保にもソースの素は売っており、うちに常備されている。野菜や肉が入っているとやっぱり嬉しい。
作中出てきたエッグドロップのをちょこっと真似て作ってもらったアボカド卵ベーコンサンドは、ヤンニョムソースが効いて美味しかった。


白と黒。
なぜかクリームとなるとカスタードが苦手な私がつい買った、コージーコーナーの生クリームシュー。不思議なことに一口目など何を食べているのか分からなかった。
ドトールのショコラフェアではショコラムース。小さいなと思ったけど濃厚で食べごたえがあった。

43年後のアイ・ラヴ・ユー


予告から想像し得ない要素の数々が面白かった。演劇評論家のクロード(ブルース・ダーン)が、認知症を患ったかつての恋人に会うため初めて「演じる」側となる。病気のふりをすることで、愛する人に忘れられたといういわば苦痛を自身の家族に与える側に回ることになる。ダーンの演技の一番の見どころは、施設にやって来て落ち込む孫娘…それは自身の反映である…に向ける一瞬の表情だろう。それゆえ作中一番心動かされるのは、退所するクロードが交流を持った皆に「私はあなたを覚えている」と告げて回るところ。もちろんそれは永遠じゃないんだけども。

この映画にはある種の倫理への目配せが全編に漂っている。話は義理の息子の「税金による売春」問題に始まり、クロードは単に彼はくそだと非難する。施設に潜り込むのに病気のふりをするという問題、当のリリィ(カロリーヌ・シロル)の夫が健在であるという問題を、親友の大反対や施設のスタッフの「病気をバカにしてはいけません」(クロードは返していわく「おれがバカにしたか?」)、孫娘の「おばあちゃんの前の人?」などのセリフでもって意識していますよと伝えてくる。私はこのやり方、悪くないと思った。クロードと親友が酒じゃなくコーヒーを飲むのに映画が終わるのには、主人公が体験でもって倫理的に、落ち着くところに落ち着いたとでもいうような感じを受けた。

面白いと思ったのは、認知症を患っている者の結婚生活についての問題…その人が自分の結婚相手をいまだ認めているか否かという問題にも言及しているところ。実際はあんなふうにはいかない、あるいは専門家による現実的な線引きがありそうなものだけど、この映画には認知症であるリリィの意思が盛り込まれているんである。それを受けて男達が自身の行動を決め、男二人と女一人の間に優しい関係が樹立するという結末がよかった。

平日の記録


東武池袋にて開催中の冬の大北海道展にて、フラノデリスのデリスアラモード。プリンを買って帰るつもりがイートインコーナーが無人だったので。プリン、さすがに美味しかった。
「こぼれとうきびパン~コンポタサクサククルトン」はコーンポタージュ入りのパンにクルトンがトッピングされている、ありそうでなかったもの。楽しく食べた。

クエシパン 私たちの時代


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2020年、ミリアム・ヴェロー監督。北アメリカの先住民インヌ族の少女二人の物語。

「二人の家を建てよう、海辺に、ばかでかいやつを」。映画に出てくる「うちらの家を持とう」とは大抵、現実はそう単純ではないという反語的場面なわけだけど、本作でもそう。親友宅で「家に帰りたくない」と言っていた女の子は後日親戚の家に送られる。親友は歩いて訪ねて行く。ずっと一緒だと血の誓いを交わした二人がその後も「自分の家」を求めながら生きているという話である。

シャニスが「うちらの家」についてひとしきりはしゃいだ場面の後、ミクアンの家で兄を含めた三人が過ごす時間は幸福に満ちている。しかし流し台はぐちゃぐちゃ、調理の途中に火事まで起こしてしまう。ひと眠りの後に帰宅した母親に叱られるところで「夢」は破れる。ここはまだ子どもである彼女達の真の家ではない。自分で見つけねばならない。シャニスはおばさんち嫌さに同じ先住民の青年と同居している。ミクアンは夢を実現できる場所がどこかを探している。

ミクアンの家でインヌ語の分からない「白人の男の子」のボーイフレンドが一瞬マイノリティになる場面など、言葉に関する描写がやはり目を引く。彼女がフランス語での作文や話し方を学ぶ様子も面白い(前者は「白人」に混じっての講座、後者は先住民のみの授業)。「的確で力強い」文を書くと講師に称賛されたミクアンはやがて作家になる(その著書が本作の原作)。これは言葉が、文学が人を繋ぐという物語でもある、それぞれの「家」がどこであろうと。

インヌ族の人々は実際の人々によって演じられており、若者達が自分達の文化と生活の快適さとどちらをとるか話し合う場面には昨年見た「アイヌモシリ」を思い出した。一方でシャニスに暴力を振るうパートナーが涙する場面には彼らの多くが学習や就職といった場から追いやられているという社会的な問題が匂わされており、痣を作りながら「訴訟だなんて大げさなことはしない」と言うシャニス含めそうした場に参加できない者を救うにはどうしたらいいかと考えざるを得ない。その答えを、この物語は「物語」としているわけだけども。

恋する遊園地


冒頭、「足」を持たないジャンヌ(ノエミ・メルラン)がエマニュエル・ベルコ演じるママに職場まで車で送ってもらう様子は、親子というより友達同士に見える。到着した遊園地は川を渡った向こう。その流れに「IT:chapter two」のグザヴィエ・ドランのパートがふと蘇った。しかし、病院に行って治療を受けるよう言われたジャンヌがバスの中で衆目に責められているように感じるなどマイノリティの苦悩があれど、映画は終わりに穏やかな川を見せる。

「私を愛していなかったから子どもが出来ると去った」実父と、血の繋がりの無い娘を尊重する流れ者の新しい父とを示し、「父へ」との辞で締められるこの映画は、そこから独立した母と娘が手に手を取って走り出すまでの物語である。作中の母は娘と「同じ」だからこそ「反対」になり得る存在。娘は「ママが男に求めるオーガズムを私にくれる」からジャンボが好きなのだと言う。「乗った人、皆げーげー言ってるよ」のアトラクションで快感を得た彼女は、人間の男とセックスした後に嘔吐する。

ジャンヌは上司マルクに教わった詩に救われる。「命無きものよ、お前にも魂があり、ぼくらに愛を求めるのか」。交流できるからこそジャンボに愛を感じるというのは、マルクの「ぼくも機械は好きだ、怒鳴っても何も返してこないから」(なんて「男らしい」理由だろう)との対比であることからしても倫理的な配慮に思われる。この辺りにはどことなく古めかしさを感じる。

印象的だったのは、ジャンヌがドアを開けた母の腹に貼られた腹筋マシンに呆れたり美容のために運動しているところへ反撃したりする場面や、母と男がセックスしている最中に脂肪吸引の映像を見ている場面。私には美容に気を遣うことへの反抗心の表れのように思われた。振り返ると裸で寝ていた彼女が飛び起きて白いパンツにジーンズを履いて出かける(母ならそんなことはしないだろう)オープニングも、地元の少年達の嫌がらせが「女のくせに」身なりに気を遣わないことに対する揶揄であることもそれを示唆しているように思われる。物との愛には少なくともそれよりも肝心なことがあり、彼女はそこに安らぎを感じているのだと。

チャンシルさんには福が多いね


序盤にチャンシル(カン・マルグム)が夢に見る「そばにいます」と後に実際に口にする「そばにいてください」から、当初の彼女の願いが分かる。そばにいてほしい。夢の中の抱擁のように、肉体を感じられるくらい、でも苦しくない程度に、誰かと一緒にいたい。そんな彼女が生み出した「レスリー・チャン」(キム・ヨンミン)は都合と遠慮とが合わさってか「いつも隣の部屋にいます」と言う。

新居に訪れたソフィー(ユン・スンア)が窓の外を望んで「私の家も見える」。仕事を失ったチャンシルはその家で家政婦として働くことになるが、ベランダでゴミを挟んで向かい合う二人の姿にふと、彼女にとってこれは生活の糧でも暇つぶしでもなく誰かと一緒にいる名目なんじゃないかと考えた。「一緒にいる」ことを求めるあまり構えてしまい、ただ「一緒にいる」ことができない。だから大家のおばあさん(ユン・ヨジョン)とは宿題の手伝いというんで顔を合わせるし、自分と時間を合わせて帰路を共にするキム・ヨン(ペ・ユラム)と恋人になりたいと思ってしまう。

終盤、打ちのめされたチャンシルに、レスリーは「どこにいても応援しています」と伝える。別に、実際に一緒じゃなくたっていいじゃないかと。あなたにはもっと、真に欲しいものがあるんじゃないかと。翌朝、彼女はおばあさんと散歩と食事を共にする。ソフィーと皆が訳もなくやってくる。チャンシルがほぐれていく。そうしたフィクションは多いし現実もそうだと言えるけれども、この映画でも、彼女に対する様々な示唆が彼女自身、あるいは他者から実はずっとなされている。いつも隣室にいるはずのレスリーが時に留守なのは自身の疑念の表れだろうし、おばあさんは「それじゃあもやしの根をとるのを手伝って」と誘うことで何もなくたって何かある、という人間関係を提示してくれる。

ホン・サンス監督作のプロデューサーとして活動してきたキム・チョヒによる本作は、見た目が彼の作品に似ている。私はホン・サンスの映画から、男性とおつきあいする時にこれさえなければ愉快なのになあと思う、その「これ」ばかりを感じてしまうのでもう見ないようにしているんだけども、この作品で最もホン・サンスらしいと思った映像は(直後にそうと分かることに)チャンシルさんの「夢」の場面だった。ちょっとはっきりしないけれども、そういうことか、とふと思った。