12日の殺人


実話を元にした本作は男ばかりの警察内の部署(女が数名いるのが余計に「男ばかり」と思わせる)に始まる。新班長のヨアン(バスティアン・ブイヨン)が殺人現場で入手した電話に掛けてきたナニー(ポーリン・シリーズ)に被害者の名前を聞いたり訪ねた家で母親に中に入れてくれと言ったりするのに、男のやり方ってこうなのかと思う。警察には男が多く殺されるのは女が多く家にいるのも女が多いわけなので、こうした描写は紋切型ではなく「実際」を表しているんだろう。中盤ヨアンがナニーの職場を訪ねると中でエプロン姿の女達が働き外を制服姿の男達が行くのもそうだ。

観客の何割かが、ナニーはなぜ殺されたクララの交友関係、端的に言って「どの男とセックスしていたか」を言わないのかと思うだろう。捜査が進まないじゃないかと。しかし先の場面でそれこそがナニーの最も強い意思表示なのだと分かる。「有用な言動」に苦痛が伴うことこそ弱者の立場の特徴なのだと。セックスしていた男が殺したのかそうでない男が殺したのか分からない、どちらも「よくある」が、どちらにせよ話すことが捜査の役に立つと人は軽々しく言うだろう、その酷さや無知をこの映画は訴えている。

「(聴取した男につき)『チョロい』女と言ってたか?」「『物分かりのいい』女だ」「それは意味が違う」(原語が分かればこのやりとりがよりしっかり掴めるのだろう)。フランス語の教師になりたい、言葉の力を教えたいと語るベテラン刑事のマルソー(ブーリ・ランネール)が男達に「生きながら焼死した」、あるいは燃やしてやるとのラップを言わせるのはSNSに書き込んでいる女性憎悪を他者の面前で口にできるかという問いと同じだが、平気で出来る男がいる。だから彼は人のいない山へと向かうのだ、この社会での数十年に疲れ果てて。

「火をつけるのは男ばかり」、事件の捜査の後には「原因は男と女の間の溝、全ての男が犯人」と理解したヨアンはそうした社会の中でトラックをぐるぐる回り続けることしかできないが、やがてその溝を認識することと溝に目を向けず頑張ることとを両立させている女性達の存在に思いを新たに、マルソーの言葉にも後押しされ公道に出て走り出す。男性目線で男性問題を大変誠実に描いている。

部署には「若い」メンバーもいる。残業代に触れて呆れられるウィリーは調書の内容を口に出しながら入力しヨアンに咎められる(このことは振り返ると先のマルソーの言動に少し繋がる)。彼の「一緒にいると楽しいから彼女と結婚したい」に先輩らは「やめておけ」「ガキは結婚できないぞ」「女遊びはばれてるのか」などと言い立てる。このミソジニー。「女の子」だった頃、時に…というのは何十回に一度のことだけど…街でつきまといなどされると制服の男性に助けを求めることがあり、今なお自分の中にあるその矛盾の体感を掘り返しつつ見ていたら、やはり新人のナタリー(カミラ・ラザフォード)がそのことを変だと口に出す。はっきり言わないと分からない人には分からないだろう、そうするしかないやり方に矛盾と苦痛が伴う場合があるということが。