極北のナヌーク/モアナ 南海の歓喜


岩波ホールにて、ロバート・フラハティ「モアナ 南海の歓喜サウンド版のデジタルリストア版と、それに伴い特別上映されている「極北のナヌーク」を続けて観賞。



▼まずは「極北のナヌーク」(1922)。序文、すなわちフラハティが観客を映画に誘う口上が面白い。冒険家である自分がイヌイットと過ごした日々の思い出、思考の変化を含む映画作りの過程、いわく彼らは彼が元の社会に帰ろうとするのを理解しなかった、ナヌークはその後に餓死したそうだ、自分は貴重な映像を文明社会に持ち帰ることができた、云々。


私が以前この映画を見たのはカウリスマキがオールタイムベストに挙げていたからだが、今回「モアナ」と続けて見ることで、なぜ他ではなく「ナヌーク」なのか分かった気がした。過酷、シンプル、そして可笑しさ。例えばオープニング、水辺でナヌークが支える舟から次から次へと家族が姿を現すのには、車から信じられないほど人が出てくるギャグを思い出させる。終盤のアザラシ漁での彼の奮闘も、氷の下が見えないため見事なパントマイムのように映る(その後に実際にアザラシが現れるのだから二段構えの面白さが味わえる)。加えて氷の上を渡り歩くアクション、北からやってくる「drifter」という自然の脅威、男女の裸など「見どころ」いっぱいだ。


舟から最後に出てくるのを始めとして、結構な犬映画でもある。といっても冒頭の物々交換の場面でナヌークやニーナが「誇らしげに」並べる愛くるしいハスキーの子犬は食糧であるが(どこまでが演出なのか分からず)。面白いのは最後のアザラシ漁で「血の臭いに犬の野生が蘇る」と説明される犬の顔が何度も挿入されることで、犬に表情を「やらせ」ることはできないから貴重性を誇示しているのかなと思ったけれど、場を再現して出演者を撮るという意味では人間と同じか。ちなみに私達が普段決して見ることのない犬達の恐ろしげな表情は、今年の映画「ピーターラビット」の三姉妹を思い出させた(笑)


▼続いて「モアナ 南海の歓喜」(2014年デジタルリストア版)。こちらはいわば家族で紡がれた作品といってよく、フラハティ夫妻の娘による半世紀後の序文は「島の歌でなく調べ(songではなくsinging)が聞きたい」という父の言葉で締められる。


ココナツの木に始まるこの映画は、雪原の移動や寝そべっての釣りの「ナヌーク」の横に対し縦の移動による躍動感が楽しい。作中唯一の自然の脅威(しかし致命的なものではない)として挿入される暴風による高波を乗り越える舟、海中に潜っては上る男達、そして木登り。強い日差し、あるいは夜の灯りによるくっきりした影も印象的で、「誰が彼よりもうまく踊れる?」モアナが「美しさと力強さ」を誇るダンスをする時など、はしゃぐ婚約者と彼の影が映るのが面白い。後の色々な映画で見られる数々の場面に似ている。


全編に渡って最もその動きが捉えられているのは、モアナが儀式を耐え抜いたゴザで映画の終わりに眠りにつく弟である。冒頭の「ジャングルで一番危険な動物(猪豚?)」を兄達が捕える途中に木から見下ろすのを始め、父親のココナツの木に登る姿が長々と映される合間に挿入される、天辺に到達した彼を間近で捉えた映像は実にトリッキー。岩場に隠れるココナツ泥棒(カニと分かるまでこちらもどきどきする)をつかまえんと奮闘する一幕も楽しい。画面を斜めに大きく横切る手足の素晴らしさよ。


同じように「生活を共にし、信頼を得て撮影」したものを、「極北のナヌーク」では「その後にナヌークは死んだ」と言ってみせてから語り始めるのが、「モアナ」では地上の楽園を描いて見せる。物語には大きな違いがあるが、映っているものこそがフラハティの撮りたかった、伝えたかったことであるのには変わりないのだろうと考えた。