ラヤルの三千夜



イスラーム映画祭3」に掛かった際に見逃したのを一週間限定上映にて観賞。1980年、怪我をしたテロ犯の少年を助けたことでイスラエルの刑務所に収監されたパレスチナ人女性の三千日を描く。一枚の写真とやりとりから教師であると分かるも大した意味はないと思いながら見ていたが、振り返るとあちらでは日本とは違った意味での教育の切実さがあるから、彼女は教師なのだろう。


「3000 Nights」とタイトルが出てラヤルが引きずり込まれてからずっと、出てくるのは女ばかり。掲げられた写真の中の指導者と銃を撃つ男、彼女が結婚し子を成した相手の男を除き、看守、様々な類の犯罪者、その中の元兵士、「政治犯」、ラヤルの親と弁護士、全て女。まずは「刑務所もの」なんだから当たり前だと言われればそうだけれども、実際どうかというより、女の私にはあれが一つの「普通」に見えた。


パレスチナ難民キャンプ大虐殺事件のニュースに火を灯した手を房から出す人々への罰として、刑務所側は「本と手紙を取り上げ囚人達を引き離す」。これまた「刑務所もの」なんだから(本くらいしか娯楽が無いんだから)当たり前だと言われればそうだけれども、無力化することが罰であり、そのために奪うのは教養と仲間なんである。


パレスチナ人達はハンガーストライキ(と看守達の食事の用意を拒否するというストライキ)を行う。外に出られないならお前達を中に入れないと、つっかえ棒を張り食器でリズムをとり声をあげる(結局は虫けらのようにガスでやられるが)。遡ってストライキなんてやる奴がいるから迷惑なんだ、あいつは失うものがないんだとラヤルが言われる場面にはふと、この映画をそんなふうに見るのは気が引けるけれど、どこだって同じじゃないかと思う。そもそも小さな収容所から大きな収容所に出て終わるような話である。