勝手にふるえてろ



私がこれまで最も「これは自分だ」と思った登場人物の一人は「(500)日のサマー」のサマーなんだけれども、この映画でも、「主人公が恋する(認識する)相手」であるところのイチ(北村匠海)に自分を重ねそうになる瞬間があった。でもこの話はそちらにはさほど行かない。彼にも事情があることは示されるが、その真面目さの種類や度合いは明かされない。
イチを「天然王子」、「生まれながらの…」存在として捉えるヨシカ(松岡茉優)は、「視野見」でしか彼に接してこなかった。「透明」でいることは寂しいのと裏腹に卑怯でもある。「何故かな、君だけが僕を見ていないことが気になって」ってそりゃそうだ、えっ俺ずっと「対象」の側なの?ってことだろう。少なくとも映画からはそう読める。


誰かの頭(髪)を触るという行為がいかに重大なものであるか、それをするのに互いの意思がいかに大切であるかという(そのことに色々なことを託している)話でもある。映画はヨシカが「フィギュアみたいでかっこいい」店員さんに髪を触られ「私もいい?」と口にする願望に始まり、他者の髪に指を伸ばして受け入れられる現実に終わるんだから。
だから冒頭、話したことも殆どないニ(渡辺大知)がヨシカの頭を触る場面にはとてもむかつくし、振り返ると中盤、同窓会に現れたイチがいきなり髪をぐしゃぐしゃにされる場面に彼の「真実」が表れていると気付く。ヨシカが「自分と世界を変えよう」と掃除のおばさんに声を掛ける時(後でキレた時にはあんなふうに吐き捨てちゃうけれども)、相手が「頭」を守っているふうなのも示唆的である。私はあの場面が好き。現実ってあのくらいのものかもしれない。でもやってみる。勿論、しない自由だってあるけれども。


原作小説は読んでいないけれど、映画を見る限り、この話って、「古典的」な、自分を愛する男に身を任せる(性行為のことじゃなく、人生の時間を費やすとでも言おうか)という選択について、「敢えて今いちど真剣に挑んでみた」ところが肝だと思うんだけど、映画からはその真剣さがあまり感じられなかったのが残念。ヨシカが方向転換する切っ掛けが、どことなく取ってつけたように感じられた。
私はお付き合いした始めの数人に対して、いやそれこそ30を越えるまで、相手の名前をまともに呼んだことが無かった。言われて付き合っていたから。いいなと思う数少ない人にはアプローチしなかった。「やって」みりゃよかったと思う。だからこの映画には、胸が痛むのと同時に、なぜその道を選ぶのかもっとちょっと、違うふうに描いてほしかった。


あと、思ったこと色々。せっかくだから(笑)


▼一年に二本、シンプソンズ好きな女の子の話を劇場で見るというのも珍しい。尤ももう一本は15年も前に撮られた「カテリーナ、都会へ行く」だけど。ヨシカがシンプソンズのネタを引っ張ってしまうあの場面、「作中」だけじゃなく映画自体が「せっかくの瞬間」を台無しにしているところがよかった。


▼「パーティで女の子に話しかけるには」の主人公は「パーティでは居場所が無くて台所に行く」タイプだったけれど、本作は時代がぐーんと下って「今」、でもって西欧と日本じゃ家の作りが違うわけだし、タワマンだし、だから台所に逃げるとああなるというのが面白い。


▼原作者の綿矢りさは私より一回り下だから読んでいないだろうし、そもそも全くもって違う話だけど、「妊娠」のくだりで、その使い方が全然違うことから却って、岩館真理子の「ふくれっつらのプリンセス」を思い出した。あれもカタチとしては古典的な、二人の男性が出てくる話だし。


▼ヨシカが毎日顔を合わせていた人物同士がいつの間にやら「くっついて」いたのは、単なる笑える要素じゃなく、「名前って大事ですよね?」と言う彼女はそれに沿って生きているから、ヨシカが夢を見ている間に現実の関係を築いていたということなんだよね。一見些末な、ともすればくだらないことに意味の宿っている、いやそういう所にこそ意味が在るのだと言っている映画だった。


▼私は映画館では前方に座るので周囲が空いていることが多く、この映画を見た日もそうだった。席に着いたら数個離れた人が、すごくくつろいでいたふうだったのが、誰か来たというんできちんと座り直した。こういう事って結構あるけど、いやいやそのままで!と思う。この映画は実にそう、その気持ちのままずっと見ていた。