ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス



オープニング、ピーター(クリス・プラット)からガモーラ(ゾーイ・ザルタナ)への「まさかの銃かぶり?(上手い字幕だ)」、ガモーラからドラックス(デイヴ・バウティスタ)への「宇宙服を着けてないの?」に始まるギスギスした空気は一体何だろうと思う(何となく吉本新喜劇を思い出してもいた)。私にはこの映画はコミュニケーションが主題のように思われた。始めは破綻しているが、ラストシーンでは皆の間に見事に文脈が出来、コミュニケーションが成立している。


面々のうちで最も文脈を利用しようとするのがロケット(声:ブラッドリー・クーパー)とピーターで、前者はそのおかげでグルート(声:ヴィン・ディーゼル)と唯一会話が出来るし(自分が話す際には「詳しく言わなきゃ」と意識している)、「テイザーフェイス」の孤立を暴ける。ピーターがガモーラにドラマ「チアーズ」じゃそうだけど…と話す場面はコメディぶっているけれど、ああいうことから起こる困り事って結構あるものだ(…という問題を、その元になりうる「映画」で見るのは面白い)。終盤の「俺達は暗黙の仲?」「そんなものはない」とのやりとりから、操縦席にてピーターとヨンドゥ(マイケル・ルーカー)の間で「誤解」が解けるシーンには涙がこぼれてしまった。


冒頭、ピーターがアイーシャエリザベス・デビッキ)の前で「俺はもっと違うふうに子作りするのが好きだ」としつこく語るのは、単に彼のキャラクターの強調ではない。例えばエゴ(カート・ラッセル)に会った時、先はあんなに熱弁を振るった彼が、自身の出生の「子作り」の話は忌憚する。この矛盾、いや「俗っぽさ」。ちなみにアイーシャが自らの「市民」を戦いに出さない、あるいは遠隔でしか戦わせないのは、彼らが「完璧」だからであり、エゴも彼女も、「子ども」の作り方や処遇は一見正反対ながら、同じくくそだと思う。


他に思ったこと色々。


・船から降り立つエゴの隣のマンティス(ポム・クレメンティエフ)のたたずまいには、以前渋谷のホテル(ラブホテルじゃなく、仕事などに使うホテル)で渡辺淳一を見かけた時に隣に付いていた女性を思い出した。なんかしおしおしてるの。


・エゴがピーターを洗脳する時、「神」が言葉を使うなんて変なの、人間は神じゃないから言葉を使うのにと思っていたところに、言葉を使わず伝える場面になったのが面白かった。尤もその目的は何とも「人間的」だけど。


・ヨンドゥを慕うクラグリン(ショーン・ガン)がフィンに似たモヒカンふうの髪型にしているのには、「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」でメンバーに憧れて後を追ってくる「村の馬鹿」のリーゼント未満の頭を思い出してしまった。


アイーシャの「市民」につき、戦闘時には失敗した仲間にあんな仕打ちをするのに(実は見ていて最も胸が痛んだのはこのシーン)、あるメッセージの内容に大笑いするような「ユーモア」のセンスは持っているというのはどうもちぐはぐに感じられて、よく分からなかった。


・この映画をまとめると、男の進むべき道はLooking Glassの「Brandy」よりキャット・スティーヴンスの「Father and Son」、世は(としておこうか)フリートウッド・マックの「The Chain」、という話である。ピーターの母の雑多な趣味が「ラジオに流れるどんな曲も知っていた」と片付けられるのが可笑しかった。