マン・アップ!/ウソはホントの恋のはじまり


「カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2016」の初日に二作品を観賞。
レイク・ベルの美しいふくらはぎに始まり、エヴァン・レイチェル・ウッドのやはり美しい首筋に終わる劇場体験。同じ日にロマコメを二作見るとどうしたって色々比べてしまうけれど、それはそれで楽しかった。



「これからの40年は僕たちには無いけれど」
「幸いだわ」



▼「マン・アップ! 60億分の1のサイテーな恋のはじまり」は、サイモン・ペグとレイク・ベルによるロマンティック・コメディ。
主人公ナンシー役のレイク・ベルが、ふくらはぎから登場。「脚を鍛える」が本作のキーワードの一つだけど、この後、彼女は素脚?は見せず、しかし走りまくる。ブラジャーの紐どころかカップの上の方が見えているのがいい(実は次作のエヴァン・レイチェル・ウッドにもそのような場面がある)。鏡の前に立つ度、グロスを塗り口紅を塗り、胸の脂肪を下着に詰め直しと「女」を装う。「彼女はすてきな髪とかわいい顔をしてるんだ」とは終盤のジャック(サイモン・ペグ)の弁。


冒頭「パーティ」に行く気になれずベッドで「羊たちの沈黙」を見、画面の中のホプキンスに合わせてセリフをつぶやくナンシーにへえと思っていたものだけど、後半の「The Reflex」が流れるダンスシーン(何となく、ニック・フロストの「カムバック!」への返歌のようにも見える・笑)では、私も軽く口パクしてしまった。一週間のうちに劇場でデュランデュランを二度耳に出来るなんて、そうない(笑)
デート開始早々にジャックがホプキンスのそのセリフを口にした時、ナンシーは世界に拠り所が見つかったような顔をする。私も嬉しくなる。でも二人の時間を重ねるというのはそれだけじゃない、「合言葉」が増えていくってことなんだと、映画は語る。「クライマックス」のジャックのスピーチを聞きながら、これが映画だと思った。「実生活」では、「合言葉」はそんなに簡単に積み重なるものじゃないから。



▼「ウソはホントの恋のはじまり」はジャスティン・ロングエヴァン・レイチェル・ウッドによるロマンティック・コメディ。
あちらの舞台がロンドンならこちらはニューヨーク。豪華キャストの中、久々にスクリーンで会えたブレンダン・フレイザー!にサム・ロックウェルというビッグゲストが嬉しい(笑)


「マン・アップ!」が「会ったばかりの知らない人が自分の好きなものを口にする」話なら、こちらは「会う前から相手の好きなものを調べておく」話である。好きな本や音楽などの「点々」で二人の人間をくっつけようったって、そうそう上手くいかない(そもそも、それを「どう」捉えているかが大切なんだから)。
点々の間を埋める「面」とは、「あなたと出会えてよかった」や「素晴らしい歌声だった」なんて心からの言葉がそうだし、あるいは公園でエヴァン・レイチェル・ウッドが絵を描き終えた時、ジャスティン・ロングが「やっと終わった」と言ってしまう、ああいうのもそう。


▼「ロマコメ」とはそういうものなのかもしれないけど、これらの舞台は「誰もがカップルが増えることを願っている世界」である(特に「マン・アップ!」ではそれを笑いにしている)。今の私は、逃げること、あるいは「他人」同士でいることを勧めてくれる映画の方に惹かれる。実生活では「合言葉」の甘さにがんじがらめになることの方が怖いからかもしれない。
ロマコメならではの「甘さ」かなとも思うけど、どちらも男の方が女より「子ども」なのは好きじゃない(「マン・アップ!」の両親の描写など)。それに「ウソはホントの恋のはじまり」の「オカズ」の一件は「逃げ」だよね。突き詰めるとセックスの問題はあんなふうに片付けられない筈だけど、「熟女」ならああ処理しても観客に文句言われないだろうっていう。ああいうのは「甘え」だと思うね。それでもまあ、「完璧なロマコメなんて無い」というところかな(笑)


ちなみに、異なる世代間による、「マン・アップ!」での「ウォール街」に関するやりとりと、「ウソはホントの恋のはじまり」での「ウッドストック」に関するやりとりは、違うようでいて同じところを突いていると思った。何を「リアル」とするかは、体験していない場合、より名のある方に軍配が上がる。