ブレッチリー・サークル



Netflixで配信しているイギリスのミニシリーズ・ドラマ…だけど例によってこのカテゴリに。シーズン1(2012年制作)の全3話をぶっ続けで見てしまった。第二次世界大戦中に映画「イミテーション・ゲーム」にも出てきたブレッチリー・パーク(政府暗号学校)で働いていたが終戦後はその才能を持て余していた女性四人が、女ばかりを狙う連続殺人事件の犯人を追う。
カンバーバッチ繋がり?で言うと、このドラマの舞台である50年代は、ホームズの原作が書かれたのと(幅があるけど)「現代」とのちょうど中間くらい。そう思って見ると、何となく、なるほどと思う(笑)


主人公スーザンが、映画などでよく見る「事件に関する書類を一面にばーっと貼り付ける」というのをドレッサーの鏡の裏側にしているのが面白く、女は「女」としての装備の裏側にしか「それ」を持てないことを表しているように思われる(夫はその鏡の前でネクタイを締めるが「裏側」には気付かない)対して彼女が夫を通じて「情報提供」に赴く副総監が勲章を山ほど着けているのは、男は(皆じゃなくとも)成果を常に表に出していられるということを示しているようだ。
四人が実際に纏っている衣装はそれぞれどれも素敵で、着てみたいものも幾つか。下着姿の場面もあるけれど、服の上からでも当時の下着を着けているような体つきに見えるのは先入観のせいかな(笑)


女の辛さや団結といったものが、大仰に描かれているわけではないのに心にしんしんと迫ってくる。シーズン1のラスト、スーザンに辛くあたっていたわけではないが適当にあしらっていた副総監が、現場で「すまなかった」と一言謝る、ああいう匙加減がいい。
「わたしに会うまでの1600キロ」のリース・ウィザースプーンも同じようなことをしていたけど、男と二人きりでこれはやばいかもと思った時に「夫が待っているから」と嘘を付く場面には、その切実さが分かって胃が痛くなる。スーザンの日常とクロスカッティングで描かれる被害者の様子は、いわゆるエログロなんて無くても本当に恐ろしい。あそこと、日常からいつ滑り落ちるか分からない「夫が〜」と言わなきゃならない場面とは地続きである、ことを私は知っているから。


スーザンの夫なんて、作中の彼女も言っているように、時代を考慮したら(って実際は「知らない」けど)「いい夫」なんだろうけど、見ていてとても窮屈に感じる。彼が妻の外出の理由を勘違いして「くれる」と、その場しのぎでしか無いのに私までほっとしてしまう。一方で、子ども達を愛していながら、事件の話に夢中になっていると帰宅に気付かなかったり、用事があればさっと預けて出掛けたりという描写は、時代なのかお国柄なのか分からないけど、見ていて気楽でよかった。
スーザンがミリーに「あなたとどこか外国に行きたかった」と告げる場面にはじんとしてしまった。ブレッチリー・パークでの夜に「終戦したら私も『普通の女の子』になる」「そんなの私が許さない」と語り合っていた二人は、何か当てがあるわけでも何か持っていたわけでもないけれど、一緒なら違うところへ行けるかもしれない、その気持ちはとても「分かる」気がして。