ビートルズ



トーキョーノーザンライツフェスティバルにて観賞、2015年ノルウェー作品。


オープニング、ラジオのチューニングが色々回って、ビートルズの「She Loves You」を探り当てる。これは主人公キムのママの「人生はラジオみたいなもの、色々聞こえてくるけど、一番大事なのは自分の内なる声、それを探さなきゃ」というセリフに関わってくる。キムは最後に「自分の歌」を歌う。母親は、息子がそこに「書くこと」で辿り着けると分かっていたのだ。
キムは「僕が書いたこと、書くことには『それだけ』じゃない、書かれている以上のものがある」という意味のことを文章にするが、映画だってそう、彼と母親との場面にはいずれも、「それだけ」じゃないのだろうと思わせる何かがある。セシリアの最後の「私は塩」には、始めの方など記号にしか見えなかった彼女の内面が伺える。文章を、映像を重ねれば、他愛ない、あるいは混沌としたものの中に何かを描くことが出来るような気がする。


オープニングで更に実感するのは、いかにも北欧らしいデザインのクレジットにビートルズの曲が全然「合って」いるということ。これがビートルズなんだなあ、どの国の当時の文化に合わせても、そこに流れていたんだろうと思うことが出来る。
そして、次に感想をあげる映画「『僕の戦争』を探して」しかり、「ビートルズ」を描いた映画は必ず「その時代」を切り取ってしまう。「クライマックス」、対米デモの中、店を飛び出したキムが一人、「政治」なんて全然関係ない思いに突き動かされて市電を追い掛ける、デモ隊の様子にかぶる「Let It Be」…ってここはなぜこの曲だったんだろう?今のところよく分からない。


ポール・マッカートニー」のキムを始め、いつも一緒の4人組は半ズボンにリュックを背負い自転車移動(この映画においては、男性は「大人」になるほど着込んでいる)。「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」の頃に至っても、初めての「ステージ」では「I Saw Her Standing There」を鳴らし、モノクロ映像の(=彼らがテレビで見た)女の子達が歓声をあげる。「ビートルズは解散しない」と信じ、彼らをアイドル視している。でもキムは最後に「ビートルズは解散するだろう、僕と彼女の仲はいつか終わるだろう」と「分かる」。エンブレムを捨てるという行為じゃなく、日々と書くことが彼を一段「大人」にする。児童文学にして作家の卵もの、という意味で「スタンドバイミー」を思い出した。
自転車で坂を下ってゆく仲間達の後ろ姿に「オスロの三人とビートルズの四人のおかげ」というナレーション、そして大きくタイトル「Beatles」が出るのには涙がこぼれてしまった。まさに彼にとって「そういう存在」だったんだと思うから。