千年医師物語



ノア・ゴードンによる「ペルシアの彼方へ」(未読)をドイツが映画化。二時間半の長丁場、全く飽きずに楽しく見た。


冒頭、幼子三人との夕餉を終えた母親が脇腹を抑えてうめく様子の「ベタさ」に少々驚いていたら、この映画はその後もこうした、「ドラマ」や「映画」で見慣れた描写でもって進む。「設定」以外の、例えば会話の内容や「男女」の在り方(性行為をあんなふうにしたものだろうか?結局のところ「分からない」けれども)なども極めて「現代的」だ。そうした「描写の仕方」までが分かっている当時そのままだと、現代の私達には残酷で複雑に過ぎるからかな、などと考えた。
イブン・シーナを演じるベン・キングズレーが、私の目には「コメディ」の型に沿っているようにさえ見えたのは、もしかしたら(「真に迫る」ことは出来ないのだから)「出過ぎた真似」をしない為だろうか、などとも考えた。


11世紀の「暗黒のロンドン」。炭鉱仕事で稼いだパン(生きるためにまず必要なもの)を抱えた少年ロブが理髪師(ステラン・スカルスガルド)に出会う。「俺は世界を見てきた」が彼の口上の決まり文句だが、(少なくとも現在は)ロンドンから出ない。後に白内障が治った際にはいつものように馬車を駆り「世界がこんなに美しいとは」と口にするくらいなのだから、そこで満足しているのだ。
全編を通じて見られる、その土地での人々の暮らしぶりが面白く、まずはテンポよく描かれる理髪師とロブ(長じてトム・ペイン)のそれが楽しい。「明かりを」での有名映画を思い出す画、初めて執刀するロブと患者の小噺みたいなやりとり、娼館での「洗礼」。理髪師の馬車の歩みはのろく、幼いロブがすぐに追い付けるほどだったが、男は医療を学ぶために「世界」の果てを目指さんとする青年を(自分の世界の果てである)岬まで送り餞別をやる。


「宗教に寛容で学問を擁護する」イスファハンの王(オリビエ・マルティネス)は、ロブがロンドンから来たと知ると「本で読んだ」と口にする。国境を守らねばならない彼は、国の周辺から離れられない。面白いのは、王がロブにアヘンを勧める際の「お前もこっちの世界に来い」というセリフで、「肉体的」に制限されている彼は「精神的」な「世界」の中を行き来しているのである。
映画は「ローマで開花した医学が、西洋では忘れられていたが東洋では発展していた」という主旨の語りで始まる。作中、双方を結ぶのがロブだ。映画には「両方」が頻出する。ゾロアスター教の患者の遺体を解剖したロブは、イブン・シーナに「どうだった」と問われ「両方(both)でした…美しく、恐ろしかった」と答える。王の最後の「お前の記憶に私はどう残るか、友か、暴君か」にもbothと答える。そうしたものの見方って大事だ。


「明眸皓歯」とはよく言ったもので、主役のトム・ペインの白目の美しいこと。時に濡れ、時に輝く、それは「若さ」である。対して彼の「運命の相手」であるレベッカは白い歯が美しい。ちなみに私の好みとしては、トム・ペインのエラがもう少し張っていれば世紀の美男と認めるところだけど、代わりにと言っちゃ何だけど、レベッカのエラが張っていた(あれも可愛い)
「男」達が「世界」を意識するなら、スペインから「商談」として嫁入りしたレベッカは「家に帰りたい」と願う。最後には「愛する人の居るところが私の家」となる。セルジュク軍に攻められ逃げ落ちる群衆の中でのこのセリフには、少々複雑な気持ちになってしまった。