裏切りのサーカス



武蔵野館にて公開初日に観賞。ものすごい混み様で立見が出ていた。


原作はジョン・ル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」。映画の予告編にそそられて新訳版を手にしたものの、読んでも読んでも内容が頭に入ってこない。心配しつつ観てみたら、カタチばかりの読書でも役立ったのか、とてもよく分かった。


あふれる滋味、これが映画!という感じで最高に面白かった。原作のスケールを小さくして、削って削って、「映画的」に作り直してある。こんな「映画化」があるのかと思った。
「もぐら」さがしの話じゃない。男たち、boysの、涙のわけの物語。彼らは若いものから泣いてゆく。ターのほとばしるような涙、ギラムのこぼれおちてしまう涙、二人はああして泣くのは初めてだったろうか?やがては泣かなくなるのだろうか?
スマイリーが「顔は覚えていない」相手について語る時、その表情は作中一番の熱を帯び、また終盤「彼は私について何か言っていたか?」と訊ねる時、そこには恋のような空気が漂う。しかし互いの「弱点」を承知の上で、相手を打ち負かそうとする。そうした「思い」の物語でもある。


主人公ジョージ・スマイリーを演じるゲイリー・オールドマンの、きょとんとしてるようにも見える、ビー玉のような目が印象的。誰かに語りかけたり、相槌を打ったり、詰め寄ったりと、彼の声が全篇にあふれてるんだけど、喋り方がいつもと違い、どことなく油断ならない感じを受けた。
彼の「右腕」であるギラム(ベネディクト・カンバーバッチ)は、言うなれば年寄りと若者の中間の存在。最後の捕り物の際、暗がりに銃を持ってしゃがむ姿が素敵だ。作中もっともシンプルなスリルを味わえる資料庫での場面の主役であり、観客と一緒に「もぐら」を「知る」んだから、話の中心を担ってるといってもいい。その部下である「実働部隊」のター(トム・ハーディ)は、一人だけもさい格好、ポケットに手をつっこんだりひゃっほーと叫んでみたり、汗の匂いのしそうな肉体がいいアクセントになっている。
二重スパイ「もぐら」の容疑者は、幹部のパーシー・アレリン(トビー・ジョーンズ)以下4名。コリン・ファースは「アナザー・カントリー」であんなにクリケットを嫌っていたのに…(笑)
そして傷を負い現場を去ったジム・プリドー(マーク・ストロング)。マークのこと、初めていいと思った。ちなみに彼を始め頭髪の薄い男たちの、ぱりっとしてる時とそうでない時との落差は見もの。レイコン次官役のサイモン・マクバーニー(事前に予告を見たせいか、どうもカウリスマキ映画に出てきそうだと思ってしまう・笑)の着替え時の様子なんてすごい。


舞台は東西冷戦下のロンドン。冒頭「ぼくらは25年間もソ連の前に立ちはだかって世界大戦を防いでいる」とのセリフがある。一方、解雇された古株のコニーは「あの頃はよかった(スマイリーに「戦争中じゃないか」と言われ)だって本当の戦争よ、英国人が誇りを持てたわ」。スウェーデン人の監督はどういう気持ちで撮ったのか、ちょっと考えてしまった。原作に無いグロ描写の数々は、全てソ連側の仕業だけど(笑)
私にとっては、遠いところの出来事、実感の無い、はっきりいってどうでもいい世界。そこでああいう男たちが、立ち回ったり、目立ちたがったり、その懸命さが面白いと思う。これも原作には無い、幾度か挿入されるパーティの回想シーンがとても効果的だ。特に最後の「今はばらばらになってしまった者たち」の集合シーンは、ベタながらいかにも「映画的」でぐっとくる。目と目を見交わす時間の絶妙さ、マークの表情。


色々な「部屋」が出てくるのも印象的だった。映画はジョン・ハートによる「コントロール」がドアを開けて招き入れる、空気の淀んだ自室に始まる。物語のキーとなるのは、冒頭から口の端に上る「隠れ家」。スマイリーやギラムはプライベートな感じの家に住み、外に出て「仕事」をするが、コントロールの家(パーティの場面で「独り者」であることが分かる)や「隠れ家」(世話役の女性が住んでいる)は「仕事」と地続きだ。こうした「部屋」や暗号機などが、「場」というか、地に足着いてた時代を実感させて面白い。