消えた声が、その名を呼ぶ



ファティ・アキンの新作を、公開初日に観賞。1915年のオスマン帝国によるアルメニア人大虐殺を背景にしたドラマを、トルコ系ドイツ人の彼が、共同脚本にアルメニア系の祖父を持つマルディク・マーティンを迎えて制作。ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・ポーランド・カナダ・トルコ・ヨルダンの合作となる。


オープニングは真っ赤に燃える鍛冶の仕事の様子。主人公ナザレット(タハール・ラヒム)が、布を試し切りした鋭利な鋏を同じアルメニア人の、しかしうんと恰幅の良い客に渡す。客は硬貨をじゃらじゃらさせていわく「これでトルコ人から身を守る」(ナザレットも後に真似るが「失敗」する)大きく出る原題「The Cut」に、それから程遠い邦題を聞いてアキンの映画だと分からなかったのもむべなるかなと思う。この時にはぴんと来ないが、最後に再度出る時には、一度切られたものは…という意味もあるのかなと考える。


アキンの映画は常に「移民」の映画だけど、本作では主人公が長い距離を移動中にやはり移動している人、あるいは移動してきた人々と出会う。キューバに向かう船上で陸地が見えたと皆が大喜び、船員として苦労したナザレットも思わず笑う様子や、最果ての地に思われる小屋に「同胞」が固まって暮らしている様子などが印象的。しかし「舞台」は相当広くとも、冒頭から何度もカメラが横に振られその広大さが強調されても、やはり末端の話である。教会での「あれがあの男」からのくだりに一番彼らしさを感じた(笑)


当初ナザレットは、裕福な者から余計に取り、浮浪者に恵み、裕福な者を憎んだことをアルメニア教会で懺悔する。強制労働中にも、恵まれない者が満たされますようにと祈ってから粗末な食事をむさぼる。しかし「神のご加護を」と戸口で彼を見送った義姉から「神は慈悲深くなかった」と聞かされた後の無言のカットを経、翌朝には、手首の十字架を削った石を天に投げつける。「トルコ人」に向かって石を投げられない彼は、天に怒るしかない。最終的には持てる者から(というだけの事情じゃないけど)奪って自分の目的を達する様に、というかそういう心意気(笑)に、ケン・ローチに通じるものを感じた。


冒頭、夕食時に車座になって「我々は関係ない」「我々は政府に忠実だ(から連行されるはずがない)」と話し合う一族。この映画を作るにあたりアキンは資料を何百冊も読んだそうだから、「忠実だろうと虐殺された」というのも「実際そうだった」んだろう。一方ナザレットは「街には職人が必要だ(から大丈夫)」と口を挟む。彼は「職人」なんである。家を出てから初めて心和む音楽が流れ、私など笑ってしまったクラシカルなギャグが挿入されるのが、彼が他の職人の仕事を手伝う場面。作っているのが馴染み深い「アレッポの石鹸」なのも楽しく、石鹸の塔が圧巻だ。


文化の描写も面白い。映像に惹かれたのは20年代キューバの街、花売りや新聞売り(仮にナザレットが耳にしたところで「分からない」とはいえ、少年が何と言っているか知りたかった)に電報・電話局の様子。売春婦達の、生きるためのコルセット姿と、街をゆく女性達の、アールデコの影響を受けた直線的なシルエットのワンピース姿とが対照的だった。救護施設にて、ナザレットが双子の娘を探していると知るや「売春宿に行ってみれば、『私達の娘』は皆そこにいる」と女性が大声で返すのが忘れ難く、どこでも弱い立場へのしわ寄せというのがあるのだと思う。


作中唯一ナザレットが相好を崩して笑うのが、生まれて初めての映画、チャップリンの「キッド」を見る時。しかし「The End」にさっさと帰る群衆の中、彼一人が立ち上がれない(他にもそういう人がいたっておかしくないのではと疑問に思う反面、あそこで立ち上げれないような彼だからあのような「旅」が出来たのだとも考えた)ちなみに声を失った彼の身振りは無声映画のようでもある。例えば床屋で娘達はもう居ないと知らされ外に出て座り込む、追ってきた店主に対し肩をがっくり落として見せるのは、(意図的な)非言語のコミュニケーションとも取れる。時を経るにつれ、変化していく体の使い方を見るのも面白かった。