陽だまりハウスでマラソンを



邦題(原題は「Sein letztes Rennen」=彼の最後のレース)や予告から想像してたより重く複雑な映画だけど、面白かった。
予告編で聞いたシャルル・トレネの「ラ・メール」に、「裏切りのサーカス」以降の映画がこの曲を使うなんて分が悪すぎると思ったものだけど、実際に見てみたら、冒頭で流れた際にはなるほどという程度だったのが、エンディングで流れた際には何ともしっくりきて、胸打たれた。


「これはただのランナーじゃない、伝説のランナーの話だ」というナレーションが、映画の最後に誰が誰に語っているか分かる仕組みなんだけど、その時には「伝説」の意味が違って聞こえる。また、「私達は(施設に)来たのも一緒、帰るのも一緒」というマーゴ(タチア・サイブト)の言葉に、あの年齢でそんなことはあり得ないと涙を流していたら、終盤またこのセリフを聞く時には、それはあり得るのだと思える。こういうところが実にうまい。


冒頭、昼食を作り、食器を揃え、夫を呼ぶ妻。ラジオから誰かが誰かのためにリクエストした「ラ・メール」。庭のりんごの世話をしていたパウル(ディーター・ハラーフォルデン)の「もうそんな時間か」という言葉に、あっという間に時間が経ってしまう、そんな暮らしだと分かる。後に施設に入ってしばらくは「もうそんな時間」なんてことは無かっただろう。木の手入れも「クリ人形作り」も傍目には同じかもしれないけど、自分の意思でしていることが大事なのだから。
それにしても、花を飾り食卓を囲むという、ただ生活を味わう暮らしが、あの年齢になると二人の力を合わせても難しいわけで(「買い物なら大丈夫」等の台詞が出てくる)私があの年齢になった時、パートナーがいるかいないか分からないけど、そのことについて考えてしまった。


スタッフのミュラー(カタリーナ・ローレンツ)が、「老人」の枠におさまっていないパウルを非難していわく「昔、南極に行きたいと騒いでいた人がいた、でもその南極とは玄関のドアのことだった」。オリンピックのメダリストだったランナーが、その辺の兄ちゃんであるスタッフのトビアスフレデリック・ラウ)に勝つのだって「玄関のドアに辿り着く」程度のことかもしれない。しかし、だから何なのか?向かう先があるのならドアだって構わない。
施設長(カトリーン・ザース)は「彼が皆に与える影響の大きさが問題」だと言う。老齢であれば確かに、彼が走るのを見に庭へ出たことが原因で病気になり死んでしまうかもしれない。命を守るということとのせめぎ合いの難しさは分かる。


オープニングの1952年のヘルシンキオリンピックの「記録映像」の時点で、「戦争」を意識せざるを得ない。食堂で「あのパウルだ」と誰より先に気付いたフリッチェンが、盛大な家探し(部屋探し?)の結果、一枚の写真を見つけ酒をあおるのは、敗戦後の「希望」、パウルの言葉を借りれば「上ったり下ったり」の「上ったり」の時の気持ちが蘇ったからではないか。ちなみに本作では、パウルがトビアスを「最後の最後」に負かした晩の老人達の祝杯とトビアスのやけ酒の対比など、お酒が分かりやすく使われている(換言すれば酒はどんな時でも友、というわけか・笑)
若いミュラーは「過去にしがみついてはいけません」「それは歴史の一部」などと言うが、人は「今」にだけ生きられるわけじゃない。私だってそうだし、他人のそれだって尊重せねばならない。


それにしても、「ラブ・アクチュアリー」の時からずーっと気になっていた(映画と現実を混同しすぎ!笑/日本には活躍ぶりが伝わってこないから…)ハイケ・マカシュのラストシーンが笑顔でよかった。本当に嬉しい(笑)