はじまりのうた



「都会で独りのあなたへ」との前置きで始まるグレタ(キーラ・ナイトレイ)の歌が終わると、ダン(マーク・ラファロ)がそこにいる。時間を遡ってまずダンの「独り」ぶりが描かれ、手を付けられないプレッツェルを間にしての二人の「音楽」論を挟み、次にグレタの「独り」ぶりが描かれる。同じステージを二度「見る」はめになるのかと思いきや、「プロデューサーにはこう感じられる」という映像が楽しい。かすかな「歓声」まで「聞こえる」のが面白い。
ただ、私には彼のセンスを通した曲の方が「いい」とは思えず、かといってグレタの弾き語りの方がいいとも思えず、すなわち何が「いい」のか判断がつかず、既成曲以外で心を動かされたのはアダム・レヴィーンが歌うものだけ。音楽映画とは(少なくとも私の好みにとっては)難しいものだと思う。


ダンが目覚めるくだりで、少々変な感じを受ける。手前に置かれた酒瓶がやたら大きかったり、次は彼の視点だろうと思っていたら風景の中に居たりと、予想を裏切られる。そのうち、この映画はこうした映像の「揺れ」によって、「全てが世界の一部」だということを表しているのだと思う。
ベランダに出て煙草を吸うダンや、ダンの車を待って道端に座るグレタの姿が小さく、風景の一部のように撮られる。その辺の戸口の階段に座るグレタとデイヴ(アダム・レヴィーン)も、歩くように近寄って行くカメラによって風景の一部のように撮られる。そうかと思えばダンとグレタ、グレタとデイヴのやりとりがやたら密に撮られる。私にはこの映画が、そういう「引いたり押したり」でもって、街のどんな風景にも「内容」があるということを表しているように思われた。冒頭、二人の事情が呑み込めてくるに従い、繰り返される同じ「場」の見え方が変わってくるという作りも、このことに通じている。


グレタがダンの娘のヴァイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)に会うや否や「彼は素敵ね、気を惹くなら無視しなきゃ、でもそもそも本当に好きなの、連れて歩きたいだけじゃないの?」「露出しすぎた格好はダメ、男には想像させなきゃ、一緒に買い物に行く?」などとお姉さんぶって?まくしたてるセリフの数々が、ダンのためを思ってのことであろうと最高にダサい。いや、こんなセリフが機能するこの「世界」がダサい。しまいにはダンが「音楽には魔法がある、何でもない風景が意味のあるものに感じられる」といわばネタバレをしてしまう。当の二人がその魔法に掛かって…掛かりそうになってしまうのは面白いけど(「魔法」が無ければ「そういうこと」にはならない、「真面目」な面々なのだ)
作中の皆がしていることがやたら羨ましく感じられたのは不思議だ。アイスを食べたい、シャンパンを飲みたい、踊りたいなどと思う。また「風景」的に撮られている場面が多いせいか、どこを切っても「はじまり」にも見えるという、他の映画にはあまり無い感覚に襲われたのも面白かった。


ダンが仕事のパートナーのソウル(モス・デフ)に言う「小手先じゃなくビジョンが必要」ということだけを核に、音楽に対して様々な思いや関わりを持つ者が登場する。冒頭の迎えの一幕で「『宝石』が見つからないために人生がうまくいっていない」ことが描かれるダン、作曲するのは「自分の楽しみと猫のため」と言いながらも「人は『本物』を求めている」と信じるグレタ、「音楽は皆と分かち合うもの」「(恋人というよりパートナーである)君の作った曲が売れれば嬉しい」と言い切るデイヴなど。
この映画は、(音楽に纏わる)「商業主義」を否定はしない。それは冒頭から貫かれる「全てが世界の一部」という撮り方からも分かるし、何より映画の最後に、そのために出演したであろうアダム・レヴィーンが背負って立ってくれる。ジャケ写やツアーポスターがどんなに間抜けに見えようとも、彼が歌えばそこに「本物」が在る。ステージを見上げる顔、顔の輝いていること。グレタが涙を流すのは、「音楽を分かち合う」場を目の当たりにしたからだろうか?いやもっと色々な、これもまた、複合的な気持ちからかな…