ラ・ラ・ランド



オープニングのハイウェイと冒頭のパーティの「ミュージカル」場面がまず私にはダメで、後者では気が遠くなりかけた。天文台の場面は楽しかったから、群舞だと目が追い付かずダメなのかな?と思ったけど、ミュージカルで大勢が踊る好きなシーンも多々あるから、この映画のミュージカル要素が合わなかったんだな(「ミュージカル要素」とは「ミュージカル」場面自体だけじゃなく他の場面との調和のことも含める)


ラクションでもって「セバスチャン」のパートが始まるところで、一旦ぱっと目が覚めた。演じるライアン・ゴズリングも輝いており、これが3D映像ならピアノの上に置かれた呼び水入りのチップの鉢に手を伸ばしてるところだな、なんて思いながら見てたんだけど、徐々にその魅力も色褪せてきてしまった。


セバスチャンの、冒頭自室に入っての「おっとぉ!」の動作はチャーミングに感じたけれど、テスラコイルの前、帰宅したミア(エマ・ストーン)に気付いて、と次第に作品の中でもって浮いて感じられるようになってきた。周囲ではこれらの場面を含めゴズリングの幾つかの言動に笑いが起きていたから、コミカルな演出であり、私には合わなかったんだろう。登場人物の動きがぴんとこないんだから、ミュージカルとして楽しめないのも仕方ない。


最後のオーディションの日のミアは、「素」の、あるいは「真」の自分で居ようというので、ロサンゼルスの頃とは違う「普段着」姿である。しかし作中最も重要なあのオーディションの場面で、私の頭は彼女の服が「よれている」という信号ばかりを受け取ってしまい、耐え難かった。思えばオープニングのハイウェイの車の列を見た時からずっとそうだった。


全てが「汚く」見えたから面白くなかったんである。私にはいびつに感じられたお話も(これが一番)、登場人物の動きも、彼らの衣裳も、音の数々も、全然きれいじゃなかった。普段ならこれ程の「ワンピース映画」を見たら登場人物と体型がどれほど違おうとワンピースを着まくりたくなる私が、微塵もそう思わなかった。「サプライズ」の晩の火災報知器が煩いのは当たり前としても、車のロックを開ける音や携帯電話の音など、「無粋」を表しているとしても、ただただ煩く頭が痛かった。


(以下「ネタバレ」あり)


音楽映画としては、例えば近年の「はじまりのうた」のアダム・レヴィーンの使い方の、楽器もジャンルも関係なく音楽の素晴らしさを表現するやり方と比べたら、ジョン・レジェンドのくだりは不愉快に感じてしまった。彼率いるバンドのライブシーンは、「二人にとっての真実」がそこには無い、ということを表すのが目的なんだろうけど、あの描写はどうかしていると思う。「5年後」のポストカード?なんてしゃらくさい。


この映画は、デミアン・チャゼルの「僕が思う真実が皆にとってもそうであればいい(でもそうじゃない、分かってる)」という心の叫びである。ミアの初演の後、彼女の幻聴でなければ、少ない観客の中に更に悪口を言う者がいる。しかしキャスティングディレクターは彼女の「真の力」を見抜く。監督には、この世の真実のようなものを理解してくれる人は少ないという思いがあるんじゃないか。最後にセバスチャンが見る「夢」においては、ミアの舞台は満席だしオーディションは大成功だし、キースもボスも彼に余計なことをしない。私には全くぴんとこなかったけれど、監督は理想と現実の解離をあんなにも語りたいのである。


見ながら、セバスチャンは「古典しか認めない落語好き」みたいだなと思った。昔あの寄席があった場所が、今じゃあ下らない新作で盛り上がる小屋になりおって!と古典オンリーの会の席亭を夢みてるの(笑)噺家ではなく「席亭」というのがポイントで、まず「店(の場所)」を譲らないのも古典好きならあり得るから、脚本を好意的に解釈できる(笑)でもってセバスチャンとミアは真の「同志」ではない。だって彼にはあの歌は歌えない、あの心は無いでしょう?