ストックホルムでワルツを



スウェーデンジャズ歌手、モニカ・ゼタールンドの実話を元に制作。彼女を演じるのは現在活躍中のスウェーデンの歌手、エッダ・マグナソン。


ニューヨークで歌うことに始まりニューヨークで歌うことに終わる映画だけど、これはモニカが故郷を掴む話である。終盤、荒んだ生活ゆえ父親に娘を連れていかれ入院したモニカは、ビル・エヴァンスの元にテープを送り、返答を得、かつて「二度と戻らない」と後にしたハーグフォッシュの家に足を踏み入れる。言う通り「私は変わった」のだ。しかし二度目のニューヨークの夜景の向こうに、故郷はまだ見えない。それが翌晩、父親からの電話に、ぼやけた窓の外に故郷が見えたに違いない。
ニューヨークの場面が殆ど夜であるのに対し、映画の9割以上を占めるスウェーデンでの映像ではまぶしい陽射しが印象的で、その土地が例えばニューヨークとは確かに「違う」ことが分かる。そっか、それなら歌も違ってくるよなあと思わせられる。60年代のスウェーデンの様子の見事な「再現」もそれに一役かっている。


音楽の使い方は今年見た映画の中でも屈指の素晴らしさ。オープニング、いわば原石のモニカが歌う「If could happen to you」に乗せて、夜行バスでストックホルムへ行き気する暮らしぶりが示される。多忙な彼女が娘と向かい合わせのベッド(後に新居で娘が「ママのベッドは?」と聞く理由がここにある)に横たわると「Take five」が流れ、場面替わってその姿はもうニューヨークのバスの中。「捧ぐるは愛のみ」で知るニューヨークの現実。「旅立てジャック」で紡がれるツアーの楽しさ。ダイナーの店員の指に刺激されて始まる「I New York」に至り、映画は初めて彼女の「瞳」を見せる。数々の「ヒット」を経て、モニカが「てっぺん」から落ち始めたと感じると、歌は彼女自身と分かちがたくなっていく。「Trubbel」に至り、映画は初めてステージ上の彼女の背中と、かつてとはまるで違う大観衆の姿を見せる。
そして物語の最後、皆から愛されなければ不安で仕方なかったモニカが、初めて「この曲を誰々のために」と前置きした歌が、誰々ではない人物をも生き返らせ、涙を流させ、また作中のその場の、あるいは世界中の人の心を揺らす。スクリーンのこちら側の私も泣いてしまった。


「娘のために暖かい家庭を」と考えるモニカがまず「落と」したのが、「私は好奇心の強い女」を撮影中の映画監督ヴィルゴット・シェーマン。出会いの際の会話でいわく「君にはニューヨーク仕込みの女王の顔と、深い森から出てきた村娘の顔がある」。冒頭からずっとモニカの視点で居た私は、ここで初めて「世界」は彼女をそう見ているのだと知り、映画が立体的になったような気がした。(「実話」かどうか知らないけど)さすが映画監督だと思う。その後の「ワーグナー」のシーンも最高、あれやってみたい(笑)
一方、常にモニカを見てきたベース奏者のストゥーレは、映画の終盤になっても「君のことが分からない」と言う。二人の出会いは「いつもの」夏のツアーだった。音楽、仲間、自分を愛してくれる客達、多分ちょっとしたセックス。楽しいに決まってる。でも「新しい世界」へ踏み出したくて、モニカはこれまでとは違うことを口にする。それを「よかった」と言うのが彼なのだ。「凡人」であっても、彼も前進を求めていたのだろう。だから最後のシーンの「アレ」がかっこいいのだ。



実は見終わって思ったのは、そういうことを描いている映画じゃ無いんだけど、死なないのは大事だってこと。モニカは死んだっておかしくない状況を経ているし、娘だって幸いにして生き延びたとも言える。ああ、皆生き延びてよかったとつくづく思った。
そんなことに思い至ったのは、「ジャージー・ボーイズ」が脳裏に浮かんだからというのもある。本作が描くのは、モニカ・ゼタールンドの歌手人生のうちほんの少し。「ジャージー・ボーイズ」で描かれる期間の中から数年を抽出したら「こんな感じの話」かもしれない。才能と魅力の持ち主である、寂しがる子を置いてツアーに出る、出先でのちょっとしたセックスなど(ミュージシャンには「ありがち」だろうとも)映画におけるフランキーとモニカには共通点が多々ある。しかしフランキーを襲った「死」が、(この作品の)モニカには無い。その違いは大きいなと思った。


写真は武蔵野館に展示されている、モニカ・ゼタールンドのレコード。映画の前よりも後に見るのがいい。