荒野はつらいよ アリゾナより愛をこめて



全てのギャグが超好み!それだけで映画って十分楽しいものだ。尤も「映画を見ている」というより「映画を見ながらセス・マクファーレンのコメンタリーを聞いている」感覚に陥る瞬間も何度かあったけど(笑)


オープニングの風景と音楽、加えてクレジットの「西部劇」ぶりがすごい。西部劇に明るくない私の頭の中では、帰りには「アメリカ横断ウルトラクイズ」のテーマに収束してたけど(笑)あんなタイトルバックの最初に自分の名前を出しちゃうセンスが掴めず、掴めないまま映画が終わった。
突っ立った人間が交互に映るといった感じの映画において、「何か」があるわけじゃないセスのような人が主役というのは辛い。「美女」とのキスシーンもよくどアップで撮ったもんだと思う。お祭りの際のある場面において、セスの顔がマーク・ウォルバーグ(の、警官や軍人の役の時には見せないけどその他の役柄ではよく見る表情)に見えたので、「テッド」で彼を主役に据えたのは、マークがセスを輝きながら体現できるからかなと思った。


始まってしばらくは少し混乱した。セス演じる主人公アルバートが「現代」の人間にしか思われず、更にルイーズ(アマンダ・セイフライド)との「私は自分磨きをするわ」「『自分磨き』なんてあるわけないだろ、この時代」なんてやりとりに、ルイーズ含めた「皆」がメタ的存在なのか、と訳が分からなくなってしまって。それを抑え込んで慣れたところに、アルバートの「僕は勉強する類のおたくだから」なんて、自分が「現代」的な理由を説明するセリフがあり、勉強してるようには見えないから、却って混乱する始末。


この映画の根底にずっと流れているジョークは、決めゼリフが「祭りで人は死ぬ」であることからも分かるように、「西部劇」の世界では(「実際」どうだったかは知らない、そうだったのかも)、悪党のクリンチ(リーアム・ニーソン)一味の所業によらずとも人がばんばん死ぬということだ。しかし当の一味のアンナ(シャーリーズ・セロン)がそれに驚く場面は余りにさらりと流されるし、アルバートとクリンチの決闘の顛末もその要素から随分離れている。この決着こそ件のジョークに依るべきなのに。
クリンチ一味の悪行の場面やうち一人の脱獄の場面において人が死ぬ描写は、「ばんばん死ぬ」というジョークとの対比なのだから悲壮に感じられるのが「正しい」と思うけど、「ギャグが無い」だけでなく「映画」の快感も無いのでただただつまらなく、見ているのが苦痛だった。


先に書いたようにギャグのセンスはとても好みで、「設定」カテゴリではフープ遊びをする子どもを見ての、近年の…例えるなら「ローラーシューズ問題」を思わせるようなやりとり、「力技」カテゴリでは馬が順々に倒れるのがお気に入り。「トイレの個室」ではよく見るけど(例「デトロイト・ロック・シティ」)、生き物でやるとは。
羊の「アレ」にZAZ脳の私は当然?「トップ・シークレット」の牛のクライマックスを思い出したわけだけど、30年前のZAZとの違いは、「現物」(笑)を見せるってことと主人公がおたくだってこと、それから、もしかしたらそれゆえに(だっておたくは「薀蓄(に限らず自分が「分かってる」ということ)」を主張したいものだから…少なくともこの作品によれば・笑)エンディングにああいうフォローを入れるってことかな。知っていればよりお得だけど、基本的には笑いを「元ネタ」に頼らないという点は似ている。それって大事なことだ。


でも実は一番感じたのは、「テッド」が苦手なのにこちらを屈託無く楽しめた自分について考えるに、人は美味しいものを後ろめたい思い無しに食べたいのだってこと。現金だってこと。それを忘れちゃいけないってこと。