めぐり逢わせのお弁当



「妻は横に寝て埋葬されたが、業者に縦に埋葬し直さないかと言われた」なんてジョーク?がイルファーン・カーン演じるサージャンの口から、いやペンから出るほど人が溢れるインドの大都市ムンバイ。オープニングの何本もの線路を走る列車達が、作中幾度も出てくる「間違った列車でも正しい目的地に着くことはある」という言葉、更には物語のラストを示唆している。
そして鍵となるダッバーワーラー(家庭と職場とを弁当箱を持って行き来する配達人)の仕事の描写。この題材だけのドキュメンタリーが見たいと思うほど面白い。あの弁当箱袋?は手作りのもの、市販のもの、どちらが多いのか。サージャンの職場では女性もお弁当を受け取っていたけど、まだまだ女性の「社会進出」が進んでいない様子からして誰が作ったのだろう、本人か、サージャンが利用していたようなサービスか…などと考えていると、サージャンの後任である男性社員のシャイク(ナワーズッディーン・シッディーキー)がパートナーと自分のために料理をする話が出てきて、そっか、そういうこともあるよなあ、なんて思う。


場面替わって「目隠し鬼」状態の女の子の姿。何かと思えばイラ(ニムラト・カウル)が娘に制服のネクタイを「かぶせて」いるのだった。娘の髪の白いリボンは「縦結び」…というのは日本にしか無い言葉でインドでは気にならないのだろうか、不器用なのだろうか、朝の忙しさのせいだろうか、あるいは何かに心を囚われているのだろうか。
イラのサージャンへの手紙の内容が面白い。一通目に「夫のために作ったものですが、夫が全部食べてくれたと思い良い気持ちになれました、そのお礼です」…私ならそんなことは書かない。彼がタバコを吸うと知ると「一本吸うと寿命が五分縮みます、気を付けて」…彼が健康で長生きしたいだなんて、誰が知る?後にサージャンが「あなたは夢見る年頃なのです」と書く時、ああそうか、だから私には新鮮で楽しいのだと気付く。冒頭の娘の身支度シーンも、もしかしたらそのせいかもしれない。
ともあれ、イラの若さゆえの真っ直ぐさがサージャンの心を打ったのか、その手紙の日、彼はタバコを口にしない。しかし「待ち合わせ」をした日の朝、洗面所で自分が「晩年にある」ことを知る。そして自分を継ぐシャイクの門出を祝った後、タクシーの中で一人タバコをくわえる。このさり気ない描写には痺れた。


緻密で美しい作りで、ちょっとした面白い描写も多々ある。帰るなり自室に直行し背中で喋る夫に失望し、部屋から洗濯物をぽつぽつ取りながら「退場」するイラの姿。「おじさん座りますか?」と声を掛けられた通勤列車の走る音が、職場に着いてもがんがん鳴り続けるサージャンの心。
サージャンがお弁当を食べる場面も楽しい。始めはカメラもよそよそしく一定の距離を保っているのが、次第に彼に寄っていき、そのうち彼目線で手元やお弁当の中味をはっきりと映す。帰り道のサージャンと台所のイラがハエ?を手で払うのと、職場のファンと台所のファンとが重なった時、二人の交流が始まる。やがて残す一枚のチャパティは、下に忍ばせた言葉の重し。お弁当を食べる部屋の全景が初めて映る場面には心が軽くなった。
ただ時折挟み込まれる「ユーモア」の一部分は私には合わず。満席の場内は笑っているのに自分が笑えない幾つかの場面に、「映画」の方はどういうつもりなんだろうと思っていたら、話が進むと確かにそれが「ユーモア」だったらしいと分かる。少々戸惑わされた。


見ながら「Her」を思い出したのは、本作がそれと同じく思考の「豊かな土壌」になり得る映画だからというのに加え、イラが台所の窓越しに会話をする「おばさん」が、ふと人工知能のように感じられたから。だって「この曲持ってる?」と言うと流してくれるんだもの(笑)もっとも料理の匂いからアドバイスに加えて足りないスパイスを下ろしてもらうだけじゃなく、イラの方も彼女の用を足している、どちらも生きてる、助け合いの関係なんだけども。
しかし考えたら、イラがいつ声を掛けてもおばさんが居るのはとある「理由」ゆえであり(もしかしたら「理由」が無くても一般的な「女」はそうなのかもしれないけど)、逆におばさんがイラに声を掛けるも不在で、後にどこへ行ってたの?と問われることもある。作中最後のやりとりにおけるおばさんの話は、夫の命の象徴であるファンを停めずに掃除が出来たという「笑い話」だ。しかしイラは笑わない。その訳は何だろう?それを考えるために、もう一度見てみたくなる。