東京難民



公開初日、新宿武蔵野館にて観賞。現在ドラマ「なぞの転校生」を欠かさず見ており、両方で主演の中村蒼目当てだったんだけど、面白かった。彼もよかった。


主人公の修がネットカフェに泊まる、声を掛けられる、ホストクラブに勤める、映画の前半はほぼ新宿が舞台。歌舞伎町を通って帰る私には何とも臨場感があった(笑)もっとも「新宿」じゃなかろうと、ファストフード店やどこかの駅前など、「知ってる」場所が出てくるのが、単なるわあ知ってる、という感慨だけじゃない、大事な要素になっている。


冒頭、大学に出向いた修が、教室の入口で学生証を「はねられる」場面に、そっか、今の学生はこういうふうに出席管理されてるんだと思う。一緒に居た友人達が、入れない彼を残してさっさと行ってしまうのが印象的だった。本作では、彼らを始め警察官や会社員(土木現場の同僚によれば「会社に属する者が一番強い」)等の「持てる」者は皆、修に冷たい。一方「底辺」に生きる「仲間」は、出会った当初こそつれなくても、次第に情を見せる。現実味が無いようだけど、修の馬鹿正直な言動の反映とも取れる。最後に彼の元に「戻ってきた」100円玉には感動してしまった。彼の生まれた年のものだったから、一度「転落」しようと君はまだやっていける、というメッセージに思われた。


会話が「そうだったんだ」じゃ始まらない、終わらない、省略してしまえる部分が描かれているのがいい。この人はなぜ暴力を振るうのか、この人はなぜ世の中について語るのか、そういうことが、映画の都合じゃなく、ああいう人もきっといるんだろうなと感じられる、そんな映画だった。
言うなれば、カウリスマキの映画ではしょられてる面を丁寧に描いてるようでもある(勿論、はしょることにも描くことにも「意義」がある)。ただし本作の場合、主人公が「若者」「男」ということに大きな意味がある。若くても「転落」はあり得るとも取れるし、逆に、若くなきゃやり直せないのかと追加の反論?をしたくもなる。「男は流れる」というセリフには、「女」は一人で流れることが出来ないのだと思った。作中には若い女しか出てこず、その行き着く先も風俗か実家という、「若い」時にしか有り得ない選択肢だ。そういう点では、この映画は、「現実」ではなく、あくまでも「この物語」の中において丁寧なのだと言える。


窮地に陥ったホスト仲間が「なんで雪なんか降るんだ」と悪態をつく場面がある(昨年東京に大雪が降った時に撮影したのかな?)。最低限の生活が成り立っていないと、自然現象って、人にとって全然「優しく」ない。土木の仕事は雨なら休みだし、体が空いたからと人に会いに行った後、ベッドに膝を抱えて聞く雨音はうるさい。でも最後の雨の場面はちょっと違う。修がお金を「工面」して帰った朝、外からずっと子どもの声が聞こえてくるような、かっこよくはないけど繊細な音の使い方が印象的だった。


目に付くのはやっぱりタバコ。修は冒頭からずっとエコーを吸っている。落した100円を悔やんでもタバコは買う(購入する場面は無いけど)。治験のアルバイトの口を得た時によっしゃ!と火を付ける姿に、まさにああいう時に吸うものなんだろうなと思う。そのバイト中は吸わずにいられるくらいだから、まあ、まだ若いから、「中毒」って感じでもないんだろうけど。