インポッシブル



2004年のスマトラ島沖地震による津波に遭遇した、とある家族の実話を元に制作。
武蔵野館ではこんなの初めてってほど、エンドクレジットが長かった。ディザスター映画としてまずすごい。津波に翻弄される、翻弄なんて言葉じゃぴったりこない、粉砕されるかのような場面に、馬鹿みたいな言い方だけど、きっとこんなふうなんだと思う。


タイのカオラックでの休暇中に被災した一家は、厳しい時間を経て、母マリア(ナオミ・ワッツ)と長男ルーカス、父ヘンリー(ユアン・マクレガー)と次男トマス、三男サイモンの二手に分かれる。更に父は妻と息子を探すため、息子二人を「安全な山」にやり自ら一人になる。
生死の境から抜け出て、ようやく水からあがった母の悲惨な後ろ姿を目にした長男の顔。彼女が振り返ると前身にも傷がある。この時から、彼は大人にならなければならなかった。大木に母を上らせるために組んだ手の上、彼女のペディキュアが赤かった。


木の上で目覚めたマリアが、幼子との「触れ合い」でしばらくぶりに微笑んだ後、カメラは何事もなかったかのように歩くカニと、それが上を這う死体を映し出す。海の方からやって来て死んでいる魚の姿もある。
母と息子のやりとりの後、カメラがぐんと引いて、もっと広い場、例えば病院の建物や遺体の並んだ地面などを映す場面が何度もある。最後は飛行機の窓から見下ろす被災の跡だ。しかし視点を広げずとも、機内の皆の体に、誰かの「痕跡」がある。ルーカスが取る名札、マリアの腕に書かれた名前、ヘンリーが持っていたメモ。


マリアとルーカスと幼子は、現地の人達によって避難所に運ばれる。救助といってもヘリや車が来るわけじゃない、おじさん二人が引っ張って運ぶのだ。この場面のおじさんの顔が、痛みで殆ど気を失っている彼女の「目線」じゃないのが心に残った。おじさん達の話でもあるってことか、あるいは単に、逆さ顔のアップはきついからか。マリアを「ドア」に乗せて病院に向かう際、体の小さなルーカスが、はぐれないよう、その下をするりとくぐって着いて行くのも印象的だった。
被災直後も地獄なら、避難先から連れて行ってもらった病院もまた地獄だ。嘔吐するマリア達をあからさまに嫌な目で見る人。携帯電話の電池のように、人間にもエネルギーの限界があるなんて、気付かなかった。
病院に居る虫を見て、もしかしたらあの後に生まれた生命かもしれないと思う。同時に、不衛生な状態だから病気を持ってきやしないかなんて、素人だから色々と考えてしまう。


名前を呼ぶ、ということが一つのキーになっている。自分達も必死で丸太につかまっている際、幼子を助けるよう促されたルーカスはまず「僕はルーカス、君は何ていうの?」と声を掛ける。病院に運ばれたマリアは、隣のベッドの女性に対して名乗り、その名を訊ねる。
しかしルーカスが父を求める際、彼は名前を呼べない。だって子どもは親のことを名前で呼ばないから。しかしその叫びは、「自然」に翻弄された、これもまた「自然」の一部である人間の内から出た叫びとして、相手を引き付けるのだった。


もう一つのキーワードは「目をつぶって、楽しいことを考えて」…ホテルでの夜、マリアは「眠れないから一緒に星を見よう」とベッドにやってきたトマスに対して言う。やがて、ヘンリーから「弟をちゃんとみてやってくれ」と言われたトマスはキャンプ地での夜に弟に対して同じことを言う。最後には手術を受けるマリアが、麻酔を掛ける医師にこの言葉を掛けられる。眠るのを怖れていた彼女が「ゆだねる」のを決めた時、ああここに「これ」が来るのかと、涙があふれた。