君と歩く世界



原題「De rouille et d'os」とは日本語に訳せば「錆と骨」、唇を切った時の血の味のこと…と知ったのは観賞後だけど、物語の終わりにこの文字が現れた時、意味が分からずとも胸がいっぱいになった。今年一番「肉体」を感じた映画はベストワン候補の「東ベルリンから来た女」(感想)だけど、抑制されたそちらと違い、ストレートに撃ってくる、全身に響くこの感じ、これも映画だ。


「事故で両脚を失い絶望した女性が、シングルファーザーと出会い生きる希望を取り戻す」という宣伝文句に反し、冒頭からしばらく、一人の男がまだ幼い息子を連れて移動する描写が続く。列車で「残飯」を漁って食べ、盗みをはたらいた金でマクドナルドのおもちゃ付きセットを買う。これはその男、アリの物語だった。
それにしてもアリ役のマティアス・スーナールツ、すごい胸だな!と思ってたら「闇に生きる男」(感想)の主人公だったんだ。そう知ると余計、「肉体」を持ってしまった人間の業、を体現しているように思われる。


前半は、マリオン・コティヤール演じるステファニーが後に失うことになる「膝下」の画が何度も出てくる。列車の中でばたばたしてアリに叱られる息子サムの脚。アリがステファニーに初めて会う時の床に伸びた脚。ビーチでアリが夢現に見る裸の女の脚。病院でステファニーの先をゆく、彼女のワンピースを着た妹の脚。しかし事故以来久々に、意気揚々と出掛けたクラブでステファニーが他の女達を「見る」時、映るのは膝下では無く、他者から見た、彼女達のセックスを象徴する部分。問題は物理的な箇所ではなく、それが在る時に何をするか(何を出来ると「思う」か)ということなのだ。


過剰なまでの「陽の光」の描写に目をやられる。病室で目覚めたステファニーは、リハビリ室の日差しに顔をしかめ、外に出るのを拒否する。引っ越した彼女をアリが初めて訪ねた際、部屋のカーテンは全て引かれているが、彼はその一部を窓と共に開ける。そこから二人の新たな交流が始まる。
ステファニーが事故の後、初めてかつてのジェスチャーをするのは、陽の当たるバルコニー。予告編の印象から、その後彼女が「シャチの調教師として復活」するのかと思いきや、「大阪のおばちゃん」的ファッションで嬉々として地下格闘技(といっても行われているのは屋外)の世界に入っていくのがいい。


面白いなと思ったのは、アリの描写の方が断然多く、全くもって彼の物語、彼があの一言を口にするまでの物語でありながら、十分ステファニーの「はじめて物語」でもあるところ。彼への「愛」が生まれたことで、彼女の世界が変わってゆく。
彼の体をよじ登っての唇へのキス。「置き去り」にされた翌朝、海辺で彼を見かけ「私は何なの?」と言い募る。この時の彼女の顔は、怒っているというより面白がっている、新しいことに挑戦する時のわくわくした感情を秘めているようにすら見える。キスにせよこんな文句にせよ、初めての気持ちによる初めての行動なんじゃないかと思う。ちなみにこの海辺の場面、彼を見付けた後にしばらく海に目をやるのがいい。言われたアリの方も、嬉しそうな、楽しそうな顔をするのがいい。


セックスにまつわる描写も素晴らしい。ステファニーとアリの会話から、彼女が、セックスを欲していながら、「それ」自体を得てこなかったことが分かる。理由を推測することは、勝手にしていいならば幾らでも出来る。例えば性的な目で見られることへの嫌悪感とか(ゆえに却って「その気にさせる」ことでそれを発散しようとするのは、自分はしないけど「分かる」)。
ともあれセックスに対して非常にシンプルなアリによって、彼女は救われる。性的主体となったステファニーが、対象として「エロティック」に撮られていないのもいい(見る者によってどう見えるかは関係ない)。


アリは「想像力が無い」人間だ。一緒に出掛けたクラブで、ステファニーのことを「置き去り」にするのにも驚かされるけど、姉の失業のくだりで、そんなことも「分かって」いないのかとショックを受けた。培う機会が無かったのかもしれないと思う。でも私も引っ掛かりを感じつつ、何となく流してたから、同じようなもんかと思う。
彼は息子のサムについても「分かって」いない。うんちまみれになりながら犬小屋で過ごし、その犬が連れて行かれる時には作中唯一泣き叫ぶ。部屋には犬の写真。こうした気持ちを汲まないアリは、お金を得ると車のおもちゃを買って帰るが、息子はあまり喜ばない。
アリがPCで格闘技の試合を見ながら「こいつは強い!」と言うと、サムが「どっちのこと?」と聞くのも面白い。サムは「強い」ということを考えない。対してアリはこれまでの時間によって、あるいは生まれつき、「強い」ということが分かっているのだ。


週末に「ヒッチコック」(感想)で「サイコ」のトイレについて(検閲側を説得した世界初のトイレシーンだということ)見た後だから、本作のトイレシーンはちょっと感慨深かった。やっぱりトイレ、行かなくちゃ。