故郷よ



チェルノブイリ原発事故の後を生きる人々の物語。立入制限区域で撮影された初の映画だそう。


1986年春、チェルノブイリの隣村プリビャチ。鳥の声、木々、川面、そして人々。歩む牛のくっきりした影が生命を感じさせる。発電所の傍を流れる川の小舟に、恋人の腕に、安心し切って体を持たせかけるアーニャ(オルガ・キュリレンコ)。カメラが横に動くと発電所の看板。
その翌日、何かが起こった。雷、飛び立つ鳥、駆け出す鹿、吠え出す犬。発電所から連絡を受けた技師アレクセイが窓を閉め、線量計を取り出すと間髪置かず激しい音が鳴る。結婚披露宴で「100万本のバラ」を歌う花嫁アーニャの声も乱れるが、それは消防士の夫を呼びに来た同僚を目にしたため。バラのケーキに黒い雨が降り注いでも、誰も気付かない。食物連鎖の上に立つというのは鈍いということでもある、とあらためて思う。
怖いのは、何も分からないってこと。事故は当初「極秘事項」とされ、いつの間にか(作中「ニュース」は出てこない)危険だから気を付けろとの「おふれ」が流れ、避難が始まる。アーニャの言うように「放射能は音も無くやってくる」上、音を発するべき人間も「無音」なんだから。
こうした数日間を描くのに、映画は3分の1ほどを費やしただろうか。ドキュメンタリーとは違う映画としての美しさ、パニック映画なんて目じゃない恐ろしさに満ちており、目が離せない。


10年後、「あの日」の花嫁だったアーニャはプリビャチに戻りツアーガイドの仕事をしている。彼女が脱いだり着たりする場面がやたら多いのが印象的。「荒れた生活」をしている風に描かれているので、その落ち着きの無さを表してるのかなと思った。冒頭、夫の友人(後の彼女の恋人)が着た切り雀であることをからかわれ「願掛けしてるのさ」と返すのと無理に比較すると、未来への希望を捨てているとも取れる。
(ところで、「荒れている」風に描いているのは伝わってくるも、さほど「荒れている」ように見えないのは、監督やオルガが上品すぎるせいか、あるいは過度な表現を好まないせいか、どっちなのかなと考えた)
「あの日」以来離れず暮らす母親に「結婚して子どもを産みなさい」と言われたアーニャは、「結婚してるわ」と答える。場面替わって彼女のかつての部屋、古ぼけたウェディングドレスで少女が遊ぶ。消防士だった夫は「人間原子炉」となり死亡した。あの後、もしかしたら離婚していたかもしれない、「幸せ」だったとは限らない。しかし断たれてしまった道からは死ぬまで逃れられない。


映画はアーニャとアレクセイの息子ヴァレリー、二人の「語り」を随所に散りばめながら進み、最語にその「語り」の「正体」が分かるという仕組み。通訳として働くアーニャも、まだ学生の身であるヴァレリーも、共に言葉を使い自分の体験を「伝えよう」としている。振り返ると、作中二人が「交差」する幾つかの場面が、同志の一瞬のように思われる。
アーニャはガイド中に客に向かって「線量計を切ってみて/ほら、『聞こえない』でしょ?」と話し変人扱いされる。その姿は宗教家めいてすら見える。また「あの日」、妻と息子を避難させ自身は留まったアレクセイは、肉屋で買ったばかりのものを捨てるよう忠告し気味悪がられ、その後は手に入るだけの傘を人々に配って回る。二人とも、よその人からは「理解」されない。でも、知る者は伝えなければならない。


結婚式の場面で思い出したんだけど、「明日の空の向こうに」(感想)も同じ頃のソ連の話かな?結婚をためらう主人公の姿にはもりたじゅんの「キャー!先生」が脳裏に浮かぶ(昔の漫画なので描写は全く違う、結末も異なるけど)。「黒い雨」が降り髪が抜ける場面もある。
また、普段そんなことって無いのに、アーニャを愛する男たちにふと感情移入したのは、自分は放射能を浴びていない「側」の人間、という意識があるからじゃないかと気付いて怖くなった。