マリリン 7日間の恋



公開初日、TOHOシネマズ六本木ヒルズにて観賞。大きめのスクリーンだったけど入りはまばら。同名の原作は未読。


とても面白かった。あんなに甘くキレイな話なのに、出てくる皆「いい人」ばかりなのに、それでも全篇に漂う息苦しさ。映画に、人間に、マリリンに心を馳せた。


「王子と踊子」撮影中の話だなんて、もっと面白いやつのほうがいいのにと思ってたけど、観てみたら、これはこの時の話だから面白いのだ。絶好の舞台がお膳立てされてたと言える。「いつまで体をくねらせてればいいの」と長年不満を抱いていたマリリンが、メソッド演技を学び、自身のプロダクションを設立し、出演作としてまず「選択」したのが「王子と踊子」(と「バス停留所」)。このあたりの事情は、本作を観ただけでも多少は分かるようになっている。
さて、ここからがこの映画のお話。撮影中「こんなのおかしいわ」と納得できず行き詰まるマリリン・モンローミシェル・ウィリアムズ)に対し、「舞台俳優」のローレンス・オリヴィエケネス・ブラナー)は「セクシーでいりゃあいいんだ、得意だろ!」なんて怒鳴ってしまう(この後の周囲のあーあ、言っちゃった…という嘆息)。このすれ違い。
後にオリヴィエは「こんな軽いコメディなのに…」と愚痴をこぼす。妻のヴィヴィアン・リージュリア・オーモンド、全然分からなかった!)は「彼は正しいから皆がついていくのよ」と言うが、確かにそりゃそうかもしれない、「軽いコメディ」なら何も考えず体をくねらせるのが「正しい」のかもしれない、でもそれが出来ない者もいる。役者としてのすれ違いとして見ても面白いけど、もっと違ったすれ違いがそこにはあるように思われる。
「王子と踊子」で私が一番好きなマリリンのダンスシーンがフルに、さらにラストの試写室の場面でも見られたのは嬉しかった。ダンスの最後にマリリンから観た撮影スタッフの図になるのが面白い。また「私たち恋に落ちるわ、私ってそういう女なの…」というセリフなど、私には「女の魅力」を無理矢理ひねり出す馬鹿馬鹿しいものに思われたけど、本作ではそれを上手く(あまり誉めたくないずるさで)使っている。効果的なあの撮影順序は、やはりフィクションかな?


物語の語り手は、マリリンと「7日間の恋」におちたサード助監督のコリン(エディ・レッドメイン)。映画自体にマリリンの目線はなく、ひたすら「外」から見た彼女が描かれてるのに、例えばセリフが出てこず撮影が行き詰る場面や、「ショッピング・デー」に道を歩くと群衆に囲まれ大騒ぎになる場面など、作中の彼女が感じたであろう恐ろしさが伝わってくる。この物語が「真実」か否かは分からないけど、こんな状況なら、マリリンが「7日間の恋」におちるのも当然だと思わせられる。コリンとマリリンが二人きりの場面からは、彼女の気持ちにこちらも胸がいっぱいになる。(借りている)屋敷に初めて呼ばれた時の「共犯」のエロス、窓から忍び込み添い寝する時の安堵感。
多くのことを広く浅く取り上げているようでいて、色々なことが実に心に残る。「マリリンと女たち」がちゃんと描かれてるのもいい。オリヴィエにしてみれば邪魔極まりない、アクターズ・スタジオのコーチであるポーラ・ストラスバーグも、皇太后役のジュディ・デンチも、やり方こそ違うけど、マリリンをかばい育てようとする。一方離れた立場のヴィヴィアンは、オリヴィエがマリリンに惹かれていると捉え、女として、役者として嫉妬する。しかしマリリンは上手く出来ない時、「リーと話させて」と泣いて頼むのだ。映画の中のマリリンは、年上年下関わらず他の女性に守られていることが多いけど、実生活でもそうだったのかもしれないなと思う。
またコリンの屈託の無さのため、というか話の作り上(笑)周囲の者が心情を吐露してくれるので、一見「やなやつ」にも事情があることが分かる。先輩(ドミニク・クーパー)はかつてマリリンに「捨てられた」ことを苦々しく思っており、怒ってばかりのオリヴィエの本心は「彼女に対して自分は全く輝いていない」。ケネス・ブラナーは撮影中の化粧した顔のことが多いけど、この場面では、マスカラで眉を黒々塗りながらの姿が彼の老いと疲れを強調している。


全篇に「映画ネタ」があふれてるのに、「映画の映画」という感じがしないのは不思議だ。オリヴィエの「俳優の名前が付くのは二番目/だけど不味い」煙草、「未来」のものであるメソッド演技を恐れる心情(これはコリンの「知識」として語られる)、赤狩り、組合、それからポーラ・ストラスバーグの週給3000ドル!
マリリンが「理解できない」とつまづいた役柄は、そのまま映画になった。そんなものだ。マリリンが撮影を嫌がったという「紳士は金髪がお好き」や「七年目の浮気」は彼女の「代表作」になった。
また「映画監督は最高だよ」と言うオリヴィエと(当時のマリリンの夫である)作家のアーサー・ミラーが男同士、男だけで並んで話す場面には、「女優」だからこその苦しみ、端的に言って搾取される苦しみのようなものがあるんだろうなと思わせられた。あらためて、「映画」に潜む残酷さとでもいうようなものを突きつけられた気がした。