未来を生きる君たちへ



スサンネ・ビア監督によるデンマーク-スウェーデン合作映画、原題は「復讐」。


冒頭の舞台はアフリカの難民キャンプ。医師アントンが医療活動に従事している。巷では妊婦の腹が切り裂かれる事件が頻発していた。
第二の、というかその後の主な舞台はデンマークの港町。アントンの息子エリアスは、学校でいじめに遭っているところを転校生のクリスチャンに助けられ、仲良くなる。クリスチャンはエリアスをいじめる相手をトイレで殴り、ナイフを突きつけ自分たちに近付くなと脅す。


ある日、アントンは路上で見知らぬ男に殴られる。自分たちの「復讐」に成功したエリアスとクリスチャンは、男の職場を探り当て「復讐」を促す。父は彼らを連れてそこを訪ねる。「殴った理由を知りたい」と言うと相手は殴りかかってくるが、構わず何度も頬を差し出す。その後、子どもたちに向かって言う。
「分かるだろ?」
「『何が』?」
「あいつは相手にする価値もない、愚か者だ」
しかしアントン自身もその後、やり場のなく火照った体を水に沈める。こちらが「相手にする」つもりがなくても、ほとんどの場合、暴力は向こうからやってくる。私としては、理不尽な暴力なんて、わざわざ映画で提示されなくてもしょっちゅう遭ってきたよ、と少々白けつつ、妊婦を切り裂く「ビッグマン」が袋叩きにされる場面では、その輪に近寄っていく者たちの後姿に、自分だってあの場にいたら、ああして「見物」し、「復讐」の甘美さを味わうのかも、と少々どきっとする。


「アフリカ」において、この物語の後も暴力が絶えることがないのは明白だが、エリアスとクリスチャンが属する二つの「家族」は、少々急いたようにも思われる展開を経て、映画の終わりには団円となる。実際には「彼らのその後は分からない」はずだけど、そういう描き方は積極的にはされていない。何となく「閉じた」感じを受けた。これはどういうことだろう?「自分」の周囲に見えなくとも暴力は常にある、ということを示唆してるのだろうか?


「仕事」を終えたアントンが、汲み置かれた水で顔や首筋を洗う場面が多く目立った。せめて何かを消し去りたいという気持ちの表れだろうか。
他に印象的だったのは、彼と別居中の妻マリアンの、ぱちくりした目。久々に帰国した夫を車で迎える時の、どう見ても「わだかまり」のある目。それが消えていく過程。
また、学校における面談で、廊下に出たアントンの空席を挟んだ夫婦の様子や、終盤、息子の病室でマリアンが看護師に向かって「できればここにいて」と言う様子、そういうふとした場面がいい。


歯を矯正しているエリアス役の男の子が、私には「デヴィッド・ボウイの子どもの頃」にしか思われず、ずーっと、少々ときめきながら見ていた(笑)