君が生きた証



ウィリアム・H・メイシーの初監督作品。皆が「自分の歌」を歌うようになる物語だった。
「引っ掛かる部分に後の場面で応えてくれる、いわば『全ての場面が連携している』とでもいうような映画」が好みの私としては、何だか散漫な印象を受けてしまったのだけど、主人公サム(ビリー・クラダップ)が口にする「未来に向かって走り続けていたい」、そういう映画なのだとしたら、これでいいんだと思う。


そういえばこういう生き様を描く映画というものがあったなあと思う。どういう生き様かというと、「湖に小便して何が悪い」というような生き様。(現在の)古典落語のセンスに近いと思う。平たく言えば「弱者」に寄り添った物語であり、「成人男性」における「弱者」の範疇が分かりやすく示される。サムが体を洗いに行く施設の老清掃員はこっそり酒をあおる彼を受け入れるが、「肉体労働者」では無い現場監督は彼に全く同情を示さない。ビール瓶を手にバーを出るサムに注意する店員は金髪で背が高いが、バンドメンバーに差し出されたはっぱを吸う店員は有色で背が低い(それを「そう」見るお前が差別的だとは言わせないよ)
出てくる食べ物も、すごく美味しそうなわけじゃないけど思わず手が伸びるといった身近な感じで、クエンティン(アントン・イェルチン)が働く店の「セックスよりいい」ドーナツ、釣ってボートでさばいた魚など、どれも食べてみたい。パン一斤とレタス丸ごとを脇に置いたままのサンドイッチ…は海に放り捨てられちゃうけど(笑)


音楽がらみの映像がどれもいい。ライブバーの出演者のそれぞれのステージを丹念に捉える冒頭から、初めて客として訪れたサムが、作中において「特別」でも何でもないギターの音にふと振り向いて聞き入る様子、サムとクエンティンが初めて一緒にステージに立つ際、相手が「入る」度に見合わせる顔と顔、使い込んだギターのボディに印されたカッティングの爪の跡、歌う口に触れて揺れるマイクスタンド。演奏シーンに様々なカットを挿入して話を進める手際も良く、わくわくする。ソングクレジットも珍しいタイプ。
アントン・イェルチンの声があんなに素敵だとは思わなかった。歌もだけど、喋りもいい。作中数か所ある、彼の姿は映っておらず声だけが聞こえるカットでそのことに気付いた。彼らの演奏シーンには(出所にまつわる「嘘」を含んだ曲を演っているという)「後ろ暗さ」があるはずだけど、上に書いたように「人間の弱さ」に寄り添っている本作には、それでもいいじゃないか、とでもいうようなおおらかさもあるため、ただ音楽の楽しさを味わうことが出来る。


「名前」が重要な小道具?となっている。サムは四角四面の監視員の名を、わざと間違えて呼ぶ。バーでは投げやりに、その「Alaird」と「Dick」を繋げて名乗る。息子の恋人だったケイト(セレーナ・ゴメス)は「名前を変え」なければならなくなる。メイシーがバンド名を紹介する場面が多いのも、皆が自分の「名前」を大事にしているからではと思わせる(そもそもこの映画の原題はクエンティン達が付けたバンド名である「Rudderless(舵を失った)」なのだ)
初対面時、律義に「酔ってますね、ミスター・ディック」と言ってのけるクエンティン(…に対し、書かれた名前を口にして顔をしかめるイメージ通りのメイシー・笑)。ボートに足繁く訪ねてくる彼に本名を教えることから、サムとクエンティンの関係が始まる。私にとって、共に「complicated」な彼らのやりとりが映画の吸引力の殆どを占めていた。交わされるセリフも面白いし、二人の演技もいい。ちなみに元妻役のフェリシティ・ハフマンも、墓前のシーンにて、この二人はきっと、自分の「今」は正しいと言ってほしいと思い合ってるに違いないと感じさせてくれた。そういう時ってきっとある。