愛の勝利を ムッソリーニを愛した女


マルコ・ベロッキオの2009年作。いわゆる「愛人もの」というより、権力によって尊厳を奪われた者が声をあげる話、さらに広義には、ファシズムとは何かという話。
宣伝に使われてる蓮實重彦のコメントは、観る前には意味が分からず、観た後には納得させられ、でも今振り返ると、まるで「過去」のことみたいに言うだなんて、と思ってしまう。



20世紀初頭のイタリア。イーダ(ジョヴァンナ・メッツオジョルノ)は若きベニート・ムッソリーニ(フィリッポ・ティーミ)と出会い、恋に落ちた。全財産を投げ打って活動を支え、息子も産むが、権力を得たムッソリーニは彼女を危険人物とし、精神病院へ送り込む。


冒頭のムッソリーニのパフォーマンス中、「5分」の間に流れる音楽がチックタックという感じで、なんだか妙な気持ちになった。その後もずっと、滑らかじゃない、コラージュって感じの映像が続く。
ムッソリーニが大物となってから、イーダはその大事を新聞で知り、その姿をニュース映像で見る。ニュースに限らず、ふんだんに挿入される「当時の映像」(もちろん「映画」もその一つ)の使い方が面白い。それに重なるピアノ伴奏、立ち上がる者の頭、騒ぐ子どもたち、総帥への敬礼。演じる役者とは似ても似つかない「本物のムッソリーニ」の顔(映像だけじゃなく「絵」や「像」まで)、全てが効果的だ。


ハリウッド映画などで、腕利きスパイが陰謀によって孤立無援となる筋立てがよくあるけど、イーダはそれどころじゃない、権力によって本当に「一人ぼっち」に追い込まれる。中盤、「ファシズムには反対」の医師が、「正しい」と思われるアドバイスをするが、彼女には、優しさは届いても助けにはならない。この時のイーダのセリフが、私にとってこの映画のテーマだ。また彼女が綴る文字の多さは、声をあげ続けることは大切なのだというメッセージのように思われた。
半ば以降の舞台はほぼ精神病院の中。そこから飛び出したイーダがとある扉を開けると「世界」が変わっている…というか作中初めて「世界」が可視化する、という場面に胸打たれた。遡って前の場面でシスターが流す涙が、その予兆に感じられた。「ファシストの好む女」じゃないイーダに、同性から花まで贈られる。しかし彼女にとって、それはどうでもいいことなのだ。


映画としては面白かったけど、観ていてとても気持ちが重くなった。声をあげなきゃならないのはいつだって権力の無い者。そうしなゃつぶされるのに「うるさい」、一見「自分と同じ側」からも「黙ってればいいのに」、しまいには「あなたの幸せは来世にあります」なんて言われる始末(全くギャグにしか思えず…冒頭を思い出して笑ってしまった)。
一人ぼっちで育ったイーダの息子が、学友に囃し立てられながら「父親の真似」をするシーンには涙がこぼれた。これが「ムッソリーニ」役の俳優の一人二役なんだから面白い。


観賞後のエレベータで「ムッソリーニ死ね」と耳に入ったけど、ほんとにこのムッソリーニ、観賞の妨げになるほどむかつく。「芸術家としての才能がないと分かってあせってる」やつに政治をまかせると碌なことがない!(笑)
時に人間関係とは、「愛」のようなものがあった時期と、それに執着する時期、なんだなあとも思わせられた。