わたしの可愛い人 シェリ


ベル・エポックのパリ。ココット(高級娼婦)のレア(ミシェル・ファイファー)は引退して気楽な一人暮らし。あるとき元同業のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)から、「問題児」の息子シェリルパート・フレンド)を預かる。二人は6年間を共に過ごすが、マダム・プルーはシェリと他の娘との結婚を決める。



コレットによる原作を読んだことはないけど、この映画は「現代的」にアレンジされてるんだろうか?レアの言動は「現代」の私の目からするとすごく「自然」に映る。
レアと年下のシェリ、いずれにも共感することしきりだった。そもそもこの二人が似てるんだろう。気の合う者同士の空気、会話、セックスが描かれる。レアと彼女が気晴らしに付き合う相手、シェリとその妻は「男と女」でしかないのに対し、レアとシェリは(変な言い方だけど)真の身内といった感じ。そして似た者同士の二人には同じ「欠点」もあったことが、最後の場面のレアのセリフで分かる。この「欠点」は私にもある(笑)


オープニングは皮肉を交えたユーモラスな語り口で実在した「ココット」を紹介し、その最後に「絶世の美女」レアを登場させる。彼女の軽やかなアールヌーヴォー調の家や衣装を見ているだけで楽しい。一方でマダム・プルーの、どっしりとした昔ながらの邸宅とドレスも味わい深い。
プルーとレアとは「子を持つ女と、持たない女」だけど、作中そうした「対比」はされない。「別のものが欲しくなったの」「まさか愛じゃないでしょうね?」「いいえ『孫』よ!」…二人は「シェリ」(愛する者の意)を挟んで何度も対峙するが、その関係はあくまでも「個人」と「個人」。プルーは旧態依然としたセンスの持ち主だけど、レアと同様、独立した人間に思われる。
同じ(かつての)ココットでも、「型」にはまっているとはいえ、色んな女がいる。プルー宅のお茶会では思い出話ばかりで呆けきってた仲間の一人が、レストランでシェリに手招きする仕草の様になってること。その後の老婦人二人と彼との一幕が、実は作中最も面白かった。


「ココットは同業同士でしか付き合えない」と言うけど、ココットが特殊だからというより、女が財産を持てない時代に、個人営業主として金と権力を持つ娼婦と「普通」の女じゃ、そりゃあ話が合わないよなあと思う。また作中、レアがメイドには本音や冗談をぼろぼろ漏らしてることから、別の「階級」も感じた。


ラストシーンはミシェル・ファイファーのアップがしばらく続く。顔面の左右で造作の大きな違いがあることに初めて気付いた。もっともああいうアップってそう見ないから、他の女優さんであっても色々気付くかもしれない。
ルパート・フレンドは「ヴィクトリア 世紀の愛」(感想)の目もくらむような可愛さに比べたらいまいちぱっとせず。演技は上手いなと思った。