セラフィーヌの庭



ピカソやブラックと親交の深いあなたが、ルソーのような素朴派を擁護する理由は何ですか?」
「素朴(ナイーヴ)とはね…現代的本能(モダン・プリミティブ)と言ってくれ」


(↑ウーデは「素朴派」という言い方を好まなかったのに、作品紹介などではセラフィーヌをそこに属すると書かざるを得ないのが、しょうがないけど、ちょっと引っ掛かった)


実在した画家、セラフィーヌ・ルイの生涯を描いた作品。
20世紀初頭、パリ郊外。家政婦のセラフィーヌ(ヨランド・モロー)は仕事以外の時間を全て絵を描くことに費やしていた。あるとき、勤め先に間借り人として越してきたドイツ人の画商ウーデ(ウルリッヒ・トゥクール)が、彼女の絵に目を留め援助を申し出る。



ミニマムな映像で表される、田舎の自然や、素朴な暮らしの描写にまず惹かれる。草が生えっぱなしの庭に椅子を引っ張り出してお茶するウーデと妹。仲間と川で洗濯の途中、立って用を足すセラフィーヌ。彼女は家の周囲ならば裸足で出歩く。ちなみに一足しか持っていないであろう黒いブーツは、鋲が直接当たってるようなうるさい音がする。
お金のない彼女が「秘密」の絵の具を作る過程も面白い。「赤」について「欠点もあるんです」とは、何を指してるんだろう?


一つ一つのシーンがとても美しい。ウーデが庭に椅子を持ち出し、セラフィーヌを座らせて彼女の才能について話すのを、家主が窓から見下ろす図など印象的だった。このくだりは後に大きな意味を持つ。セラフィーヌがろうそくを前に、知人を呼んで絵を見せる様子は、キャンバスのでかさもあり、自慢のドレスを着替えてみせるよう。
時間の流れもさりげなく映し出される。セラフィーヌを訪ねる際、相変わらず帽子を取った髪をなでつけるウーデは、二度目には部屋に入れてもらえる。始め木に登って「庭」を見ていたセラフィーヌは、年をとってそれができなくなると、椅子を持参して出掛ける。


ヨランダ・モローの仕草、たたずまい、目つき、全てに「セラフィーヌ」が乗り移っており、俗な言い方をすれば、最初から最後までいっちゃってる感じ。家族もなく「昔からずっとしいたげられてきた」彼女は、頑なながら、彼女なりの知恵と優しさとしたたかさを持っている。へんな言い方だけど、それこそ人間の「本能的」な姿に思われた。


実在した画商ウーデは、映画にある通り、ルソーを「発見」した人物だそう。画商というより「収集家」であり、いわく「収集は自己表現」。彼もある種の「芸術家」である。芸術家気質が無い私には「パトロン」という感覚がよく分からないから、どんな気持ちでセラフィーヌに接してるのだろうと思いながら観た。
第一次世界大戦後、彼は画家である恋人(若い男性)と妹と共にフランスに戻ってくる。そして、私の目からすると面白くもない恋人の絵を世に出そうと懸命になる。これも実話なのかな?恋人自身はそのことについてどう思ってたのか、気になった。