17歳の肖像



「あなたの小論文はいつも私の励みになってるけど、それは励みにならないものだわ」


先生のこの言葉に涙があふれ、まさにこれは「an education」(原題)についての映画なんだと思った。



1961年、ロンドン郊外。16歳のジェニー(キャリー・マリガン)は、オックスフォード大学目指して勉強を重ねる毎日。しかし年上の男性デイヴィッド(ピーター・サースガード)と知り合い、世界が一変する。


「教育」は必要なものだが、おこがましい概念でもある。私が教員を辞めた理由の一つは、あるとき、自分の指示通りに全員が作業してるのを見て、空恐ろしくなったから。教育する側には、「大層なこと」をしているという認識と、自らも影響を受け変化するのだという自覚が必要だと思う。私にはそれを持って頑張る強さがなかった。


高校生のジェニーにとって、眼鏡にひっつめ髪のスタッブス先生(オリヴィア・ウィリアムズ)は「死んだような」存在。「彼」の話で盛り上がっていると、「恋愛の時間は終わり、現実に戻るわよ」なんて注意される。
「彼」と憧れのパリへ出掛けたジェニーは、友達へのおみやげの傍ら、先生にシャネルの香水を買ってくる。それに対するセリフが冒頭のものだ。自らも影響を受けていることを伝え、「正しい」と思うアドバイスをする。なんて心のこもった教育者の言葉だろうと胸を打たれた。終盤の二人のやりとり、「その言葉を待ってたの」というセリフにも泣かされた。


では、同じくジェニーを「教育」するデイヴィッドの方はどうか?そのぴっちりした髪型、贅肉のついた体、板に付き過ぎたユーモア、彼は一見、全てにおいて出来上がってしまい揺るがない感じがする。「君は与えた全てを吸収し、それ以上に求める子だ」という言い様からは、支配欲や尊大さが感じられる。しかし彼も、ジェニーを「特別」に思うようになり、変化する。ただし変わりようのない部分もある。ジェニーは彼によって変わり、彼もまた変わったが、それは(ジェニーからすれば)微々たるものだった…ということだ。
そもそも、性的な間柄においては、教育って成り立たないものじゃないかとも思う。人生の、自分の一部にプレイとしてあるなら楽しいかもしれないけど。実際、デイヴィッドが辛抱たまらなくなってジェニーにプロポーズしたあたりから…彼が「教育プレイ」を踏み越えた愛情を表す頃から、映画には陳腐な恋物語の匂いが漂う。そして、たんなる年の離れた二人の関係は終焉を迎える。


初めての音楽会の夜、デイヴィッドの「仲間」であるヘレン(ロザムンド・パイク)の見事な毛皮に思わず触れるジェニー。「チェルシーで買ったのよ」との言葉に、フランス語で「私には高級ね」と返すが、通じない。相手構わずそういうことを口にしてしまうジェニーの世界の狭さ。このシーンには一抹の切なさと、不吉な予感を覚えた。


全体を通して強く感じたのが、私の体感し得ない「60年代」。
まずはジェニーの、フランスへの強い憧れ。家ではグレコのレコードを聴き、友人とは煙草片手にカミュを語る。後の彼女が実際に訪れる「パリ」の普通っぽさに比べ、それらには歪んだ輝きを感じた。
また、当時は「お勉強」と「カルチャー」、「子ども」と「大人」など、全てがはっきり分かれており、あれもこれもというわけにいかない。「勉強しながらおしゃれはできない」「進学できなければ結婚」なのだ。私の感覚からすると、「大人の男」との関係は「それはそれ」であり、進学含め気楽に色々するのがいいように思うけど(実際、自分や友達もそうしてきたけど)、ジェニーの態度は頑なだ。彼女の性分だけじゃなく、そういう時代だったんだろう。そもそも、観ている分には軽快で楽しいオープニングタイトル(ジェニーの学校の授業の様子がテンポよく流れる)も、自分の身に置き換えたら窮屈そうだ。


見どころの一つが、エマ・トンプソン演じる校長先生のかっこよさ。堂々たる体躯で着こなされる服とアクセサリー。



「要点は分かった?」
「…帰ってもいいですか」
「いいわよ」


「勉強を続ければ、教員になれるわよ」(中略)「教員だけでなく、公務員にもね」という彼女のセリフには笑いが起きてたけど、実際そうだったんだろう。10年ほど後になるけど(国も違うけど/景気も関係するけど)、私の母も「四大を出た女子の就職先は、教員か司書くらいしかなかった」と言っていた。


60年代ファッションも見ていて楽しい。体育の授業の際の、白いポロシャツにグレーのミニスカートという格好に、ミニスカートが動きやすさを重視して作られたものだということがよく分かる。