すれ違いのダイアリーズ



この映画のストーリーは「恋愛」と「教育」の二本の柱から成る。それらは勿論、大いに絡み合っているけれど、恋愛パートと違い、教育パートはそう起伏なく、淡々と描かれる(ように私には見えた)。それは当たり前で、変化があろうと、学校の一日はいつだって同じ、特別な一日だからなのだ。


(以下「ネタバレ」あり)


たった一人で水上学校に赴任してきたソーン(スクリット・ウィセートケーオ)は、当初は「叱る練習」くらいしか出来ないが、前任者であるエーン(チャーマーン・ブンヤサック)の日記を読み、そのやり方をなぞる。授業の方法を真似するも、手の怪我のために板書がぐちゃぐちゃでそっぽを向かれるくだりや、あるいは「日記」が介在せずとも、エーンの「自己紹介」のやり方を子どもたちに教えられるくだりなどが楽しい。
タイの国旗を大切にしている場面が何度か挿入されるのも印象的(教育委員会のような組織を通さず教員を採用しているけど、あれは公立学校なんだよね?)。エーンは「教育を受けるのは子どもの権利です」と家業を手伝う子を迎えに行くが、それが国の法ならば、分校に「追放」された、いわばアウトサイダーの彼らこそ、国に忠実である、それを示す機会を持つことになるというのが面白い。


大の字に寝転び「おーい」と呼んでも誰もいない、ふと見上げるとあの日記。そこからは、日記を書いたエーンはなぜそれを残していったのだろうと考えながら見ていた。私には、「流れ」を途絶えさせないために思われた。
日本では、「一年目」の先生には指導教員が付き、教職員全員がフォローして、将来の教員を育てていく(ことになっている)。受け継ぎ、受け継がせて、「教育」の流れを絶やすまいとする。だから、ソーンが全くもって「一人」であることにショックを受けたものだけど、あの日記こそが、彼を流れに加わらせる。ソーンが日記を、台風で流されるも拾い集めたり、書き残したエーンに「恋人がいる」と聞いて燃やすもすんでのところで取り上げたりと保護してきたのは、はからずも、大袈裟な言い方をすれば、「教育」の流れを絶やさず守ったことになる。それが面白いなと思った。


冒頭、タトゥーをいれたことを校長に咎められたエーンが「見えないもののことで揉めるのは時間の無駄です」と言い返すのに引っ掛かっていたら、これは彼女が「見えないもの」の大切さに気付くまでの物語でもあるのだった(だから作中の主題歌?でも「目を開けていると見えないものがある」と歌われる)
それはエーンの中で、「教育」によって育ち、「恋愛」において結実する。恋人に「別れよう」と言うのは「仲直りしたいから」だなんて、心の内を探らず明かさず、「面倒な」ことに触れずにいればそこそこ楽しく過ごせる、それでよしとしていた彼女が、教員としての新たな体験を経て変わってゆく。「何か言ってくれ」「妊娠していなければ黙ってた?」という一見ベタなやりとりは、彼女が「見えないもの」に目を向け始めた証である。そして遂に「列車待ち」の時に、「見えないもの」に「踏み込む」のだ。


(「タトゥー」が「(タイにおいて、今尚)反抗のしるし」であるか否かということは、この映画では問題ではない。「タトゥー」や「妊娠」を、ストーリー上の「小道具」として扱うようなところは好きじゃない。それらにはそれらの意味があるんだから)