つぐない


エンディングロールの間、久々に、明かりがついてほしくないと思った。



30年代のイギリス、夏。上流階級の家庭に育つ13歳のブライオニーは、作家を目指し日々執筆に励んでいた。ある日彼女は、使用人のロビー(ジェームス・マカヴォイ)が姉のセシリア(キーラ・ナイトレイ)に宛てた手紙の内容と、二人の密会場面を目にして動揺。その夜に起きた暴行事件の犯人をロビーだと証言してしまう。


最近の他の映画と異なり、始めから構成を明かしてしまわない作りが良い。ラスト、あの日と同じような髪型にワンピース、ネックレスを身につけたヴァネッサ・レッドグレーヴが登場・告白したときの衝撃、映画的快感。最後のロマンチックすぎるカットに涙がこぼれた。
前半の、少女が見たことのあとに時間を遡り、見られた側からの事実が繰り返される流れもどきどきする。後半は意外にも戦争ものっぽくなるけど、とくにロビーのパートは幻想的で魅せられた。その他、例えば少女が発見した際の二人の様相など、面白い画面が多々ある。


「僕らには図書室でのあのときだけだ…」ジェイムズ・マカヴォイの、キーラに触れられたときの第一声が素晴らしかった(「僕の美しい人だから」(90年)でスーザン・サランドンに乗られるジェームズ・スペイダーを思い出した)。正装も軍服も似合っていた。主人の援助でケンブリッジ大学を出て医者を目指す、普段は肉体労働に勤しむ青年。妄想を知られたと気付きながら、迷うことなく彼女の邸宅のベルをならす姿。昔ならゲイリー・シニーズの役所かな。
キーラ・ナイトレイには思わず感情移入してしまい、愛する人との束の間の逢瀬のシーンなど泣かされた。役者というのはやはり「顔」なんだなと思った(あまり好みじゃないけど)。体なら私は成長後のブライオニーを演じたロモーラ・ガライの方が余程美しいと思うけど、顔の力はすごい。体もそれにくっついていれば輝く。


オープニングは姉妹が暮らすお屋敷を模ったジオラマ。自室でタイプライターに向かう少女は、うなじの下のほうが赤い。夏の日差しに遊んだ後で髪を切ったばかりなのか、あるいは自分の手による物語のラストに興奮しているのか。
数年後に看護婦として働く頃には、ずいぶん面の皮も厚くなっている。同僚の他愛ない冗談に吹き出す(作中唯一の楽しそうな姿。結局人は、自分と関係ない事柄にこそ笑うことができるのかもしれない)。しかしタワシで執拗に手を洗う姿にはっとさせられる。
人は変わらない、あるいは昔の何かのために変わる、いずれにせよ「あの日」と切れることはないのだ。


小学2年生の朝の掃除の時間、同じクラスのNちゃんが「服を自分で選んでいる」と言うのでびっくりした。私の着るものは親が揃えていたから。紺やグレーのスカート、少しでも寒くなると用意されるタイツに、いつも不満だった。
今の私は、当時よく着せられていた色合いを好み、反面素足を出さずにはいられない。あの日から逃れられない。少女はあの日の自分の格好について、どう感じていたのだろうか。自分のやり方で「つぐない」を終えたたときの、同じような格好は、いつからそうしていたのか、し終えたとき身に付けたのか。


少女は思いを寄せていたロビーに助けてもらうと、「あなたは命の恩人です」などと大仰にお礼を言う。彼女の男女関係の概念は、大好きな戯曲や小説から作られているのだろう。更には時代背景もあり、セックスは罪悪だと思っている。
少女が窓から見たものは「何」だったのだろう?私は保育園に通い始めた頃、初めて男の子を「好き」になった。「男」そのものを感じることが快感だった。彼女が見たのは複数の人間によって作られる「社会」だ。それを感知したときから、性的な人間の苦しみ、快楽と表裏一体の行が始まる。


物語に登場する「少女」はブライオニーだけではない。初対面の男に稚拙な媚態を見せる従姉のローラも、さらに言うなら姉のセシリアも、少し前までは少女であった。姉は子どもたちに「泳ぎに行きたい」と頼まれれば、顔も見ずに「気をつけて」で済ませるタイプだ。きっと少女の頃もそんなふうだったのだろう。
当たり前だが「少女」というものは一様でない。この映画の宣伝にも使われているけど、よく言われる「少女の残酷さ」を私は実生活で感じたことがないし、何を指すのか分からない。フィクションの中にのみ存在するなら、人はなぜそれを求めるのだろう?