エンジェル


フランソワ・オゾンは好きだけど、この映画は予告編を見てもそそられなかった。実際、観ている最中も、出てくる動物からお墓まで全てがギャグに感じられてしまった。昔ながらの雰囲気は面白かったけど、全てがばらばらで上滑りしている印象を受けた。
それでも監督の真面目さや優しさは受け取ることができ、あとからこうして思い返すと、観てよかったと思う。


20世紀初頭のイギリス。田舎町の食料品店の娘・エンジェルは、上流世界にあこがれ、部屋にこもってロマンス小説を書き綴る。やがて10代にして流行作家となった彼女は、お屋敷「パラダイス」を手に入れ、美男で貧乏画家の夫と、自身の崇拝者であるその妹と暮らし始める。



「戦争は私と夫を引き離しました…だから何人も、戦争について話すことは許しません」
このセリフに象徴されるように、エンジェルは、オゾンの映画の主人公がたいていそうであるのと同じく、自分の都合のみで生きている。
愛する人のほうが国よりも大切。すなわち、自分と誰かの関係のほうが社会問題よりも大切。私はそういう考え方を「真っ当」としている。だからオゾンの映画が好きなのだ。でもこの映画におけるその「真っ当」さの発露は、私にとってあまり興味の持てるものではなかった。だから予告編で惹かれなかったのだと思う。でも、こういう昔ながらの映画のパロディのような作りでは、こんなふうにストレートにしか表せない…表すべきだったのだろう。


エンジェルが「忘れたい」と唾棄する生家では、食べ物がなまなましく登場する。狭苦しい自室でペンを走らせる、あるいはベッドの中で目を見開くエンジェルに母親が運んでくる、トレイに乗せられた茶色っぽい食事。伯母さんがお茶とともにぱくつく、ジャムをたっぷり塗った分厚いトースト(美味しそう!)。
しかしエンジェルは、食べ物を口にしない。生家ではもちろん、贅を尽くして理想を叶えられる「パラダイス」においても。原作ではどうだったんだろう?食に興味がなかったのだろうか。
いずれにせよあの胸は、夢想だけで膨れ上がっていたのだ。だから夢がなくなったら、しぼんでしまう、命は消えてしまう。


エンジェルを演じたロモーラ・ガライの脚がよかった。自分のセックスを管理していない、ぶらぶらと重たくくっついている、でも美しい脚だった。
ちなみに脚といえば、男版「哀しみのトリスターナ」か〜と思わせられる場面があった。でもオゾンの映画は、ああいうふうにならない(笑)


ところで、好意を抱いている、あるいは仲の良い男性の成す「芸術」に、興味や好感が持てない…というのはよくあることだ。写真から絵まで何度も経験がある。私は自分が芸術に対する才能も関心もないことが分かっているし、それはそれと考えてるけど、エンジェルは、愛するエルメ(「あいつは男前だ」とセリフで言わせてしまう、オゾンのストレートさが愛おしい)の絵を「よい」ものとし、その上でもっとよくしようと、散々注文を付ける。そのあたりの感覚が、想像してもよく分からなかった。


一つ引っ掛かったのは、夫にお金の無心をされて新作に取り掛る決意を固め、「書き上げるまで部屋から出ないわ」とエンジェルが机に向かう場面。座るなりペンを取るので、イスがずれたままだ。ここは姿勢を正すとこだろう、と気になってしまった。
執筆の際の姿といえば、エンジェルは、小説を話しながら、あえぐように書いてゆく。彼女の崇拝者であるノラも、タイプするときにはいちいち読み上げる。ぜんぜん関係ないけど、声を出してたか忘れたけど、「アデルの恋の物語」で手紙を書くイザベル・アジャーニを思い出した。