無銭優雅


無銭優雅

無銭優雅


彼女の本を読むのは何年ぶりだろう?ひょんなことからウチに来たので、半分くらい読みました。私も三浦屋(スーパー)好きだ〜。飯田橋にできるまで知らなかったけど。
中学生くらいの頃は、噛んでるガムを交換したり、鼻を舐めあったりという描写に、そんなことするのかな〜と思ってたけど、今やそんなの「普通」どころか、もっとばかみたいなこともする。愛のせいではない。なんとなく、そうなってしまった。フィクションや芸術や、想像ではなく、誰かと誰かの間に、物事は発生する。


中央線沿線に住む40代の二人の物語。「書き散らかし感」の名人芸。
主人公が「哲学科を出て花屋だなんて無意味」と言われるくだりがあり、私も同じ学科卒なので可笑しかった。私は大学での勉強は娯楽と捉えてたから、それがその後、目に見えるカタチで(自分のためにも/世の中のためにも)役立ってないのが当然だと思ってるけど、そうでないケースももちろん尊敬するし、でもとにかく、他人にあれこれ言われたくはないものだ。

自分を能天気のまま保つのには、才覚がいるのである。(略)実は、私は、そうでない自分を見つけてしまうのが恐くてならない。(略)でないと、居場所を奪われた子供みたいに、心許なくてたまらなくなっちゃう。そして、そんな自分の本性を誰かに悟られたら、恥しくっていたたまれない。

これには共感した。能天気のままでいようと決めて能天気でいることは、意識せずに能天気でいるより大変かもしれないけど、でも、やれることやるしかない。世の中を思い通りにするためでなく、自分の幸せのために。


誰かが私を、形容したり評価したりする言葉は、私の輪郭を作り上げるだけで、私の中には入ってこない。自分で作った輪郭に安堵されても困る。
どんな誉め言葉よりも、愛の言葉よりも、何気ないやりとり、ほっぺたでも嘗めてもらうほうが嬉しい。生きてるってかんじがする。