プール開き〜フランソワ・オゾン


学校関係者は放りっぱなしのプールの汚さをよく知ってるものだけど、映画を観てると、向こうの人(映画を観る限り、西洋の人というのか)は、葉っぱの浮きまくったプールに平気で入るので驚かされる。
悪魔のような女」(オリジナル版)では、投げ込んだ死体を発見させたい先生の策略で、男の子がどろどろのとこに飛び込むし、そう汚くはなかったけど、「スイミング・プール」でも、若いジュリーは、久々に訪れた別荘のプールでいきなり泳ぎ始める。えっと、書いてて思ったんだけど、浮遊物をものともしないのは、若さゆえなのかなあ…



今月「ぼくを葬る」を観たこともあり(感想)、フランソワ・オゾンにちょっと思いを馳せた。
一緒に「スイミング・プール」を観た人も、「まぼろし」を観た人も、ともに男性だったけど、「面白いけど、わけがわからない」と言っていた。ナンセンスな言い様だけど、それなりの年齢の人だったこともあり、ああ、若い頃にリアルタイムで少女漫画読んでれば、馴染めたかもしれないなあ、などと思ってしまった。だって、とくに「スイミング〜」なんて、原作・山岸凉子と言っても全然おかしくないもんね(笑)
オゾンの映画では、何が真実かは問題にならない。そういう意味で、たぶんに昔の「少女漫画」的である。そこでは、主人公の目を通した事実こそが世界の全て。恋する対象も「恋されるもの」以上の描写はされない。それはそれで真摯な世界である。
まぼろし」のシャーロット・ランプリングにとっても、ダンナが日々何を感じているかなんて、どうでもいい。私の好きな人。あの不味そうなパスタ!でも長年連れ添った「美食家の」ダンナは、もうちょっとくれ、なんて言いながら、ワインとともに口に運ぶ。


ちなみに私の「スイミング・プール」の感想は、いわゆる再起一発は、もうちょっと、おじいさんじゃないほうがいいなあ、というものでした…