ぼくを葬る



フランソワ・オゾンの2005年作。2日までの上映だったので、映画の日に観てきました。面白かった。


ファッションカメラマンとして働く31歳のロマン(メルヴィル・プポー)は、ある日医者から、余命数ヶ月であることを知らされる。


同居中の青年にも、しっくりいっていない家族にも、自分に死が迫っていることは言えない。
ロマンは、森の中にひとり暮らす祖母(ジャンヌ・モロー)に会いにゆき、彼女にだけ、事実を告げる。

「どうして私にだけ教えてくれるの?」
「僕に似ている…もうすぐ死ぬから」


まったく関係ない話だけど、「『赤ずきん』はなぜ愛くるしいか」↓の中で

「赤ずきん」はなぜ愛くるしいか (ハヤカワ文庫NF)

「赤ずきん」はなぜ愛くるしいか (ハヤカワ文庫NF)

著者は、自らの若気の至り的解釈として、赤ずきんのお婆さんは、なぜ寂しい森の中で暮らしていたのか、赤ずきんの両親に捨てられたので、狼を利用してその娘を殺したのではないか…という文章を載せているんだけど、それをふと思い出してしまった。ジャンヌ・モローには似つかわしくないけど。
「(夫が亡くなってから)愛人たちがいなければ、私はどうにかなっていたわ」
というセリフがあったけれど、愛人たちとも、森の中で逢っていたのだろうか。
森の中の老女と愛人、というと、フィクションにはあまり見られない組み合わせなだけに、ロマンチックなものだ。これも関係ない話だけど、先日「ナイロビの蜂」を観た際(以下ちょこっとネタバレ)、冒頭、主人公の妻は、慈善活動に熱心ながら男も大好き、と取れるような描き方をされており、あまり見ないキャラクターで面白いなあ、と思ったものだけど、後半そうでもないことが判って、そこのところはつまらなかった。ちなみに「ナイロビ」のビル・ナイは、たいして面白みのある役でもないのに、やはり素敵でした。



閑話休題
ジャンヌ・モローは裸で眠る。

「おばあちゃんと一緒に寝たい」
「でも私は裸で寝るのよ」
「だいじょうぶ、見ないから」

ちなみに私自身も、寝るときは何もつけないんだけど、先日、同居人がふと、もし私が年をとって、病院なり施設なりに入ったら、パジャマを着なきゃならないでしょう?せめて最期には、裸で死ねるよう、自分が脱がせてあげる、と言っていたのを、思い出した。



「私のために化学療法を受けて」
「そんなもの…信じてないくせに」
「あなたを、信じてるわ」
「おばあちゃんは素敵だ。もっと早く会ってたら、結婚を申し込んでた」


ロマンはなぜ、子どものころの自分に何度も遭遇するのか?

「夢の中でなら、誰とでも寝られる…それこそ昔の自分とでさえも」


最後は「ベニスに死す」を思い出してしまいました。
そうそう、「ベニス」といえば、ロマンの恋人のサシャ(ジャッキー・チェンが美形になったようなカンジの鼻デカ好青年)は、別れを告げられた夜、ソファで一人寝している際、こめかみから一筋の血を流す。印象的なシーンだった。
ロマンは、身勝手な別れの宣告の後、彼に連絡を取り、もう一度セックスしたいと頼むが、断られる。

「今更そんなことしてどうなるの?」
「可笑しいな、君からその言葉を聞くなんて…
 これまで毎日、そんなことをしてどうなる、と思ってきた。
 だけど今日だけは、そう思わなかったんだ。
 それがいま、君からその言葉を聞くなんて…」

二人は仰向けに寝転がり、ロマンは彼の手を、自分の胸に当てる。鼓動が聞こえるかい?まだ動いてる…


ラストシーンの、ロマンの海辺に寝そべる身体、男の人の、横たわる硬い身体は、私にとっては丘陵のような、あるひとつの世界、美しい世界であることを、ふたたび思い出した。