危険なプロット




「公園のホームレスが見たら、
 きっと僕のことを本当の息子だと思うだろう」


これは面白すぎる!フランソワ・オゾンの映画はどれも好きだけど、中でも一番「楽しい」んじゃないかな。
憧れの家庭に入り込んだ少年が上の文章を綴る時、彼の「家族を求める心」ではなく「『物語』に生きる姿」が切なくじんとしてしまう。ドラマそのものじゃなく、ドラマに惹かれ翻弄される、私の中にもある心についての物語。


高校の国語(フランス語)教師ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)が新学期に出勤すると、新たに「制服」制度が導入されていた。朝会での校長の「色々な家庭の子が平等なスタート地点に立てるよう」という説明に、一番後ろの席に座る彼は呆れ顔。
「生徒」のクロード(エルンスト・ウンハウアー)は裸の身に「制服」をまとい、皆と同じ成りをして登校する。彼の書いた作文がジェルマンの心を捉える。それは週末に初めて訪れた、クラスメイトのラファの家を題材としたものだった。


(以下「ネタバレ」あり)


「作中」のクロードが初めてラファ父とラファ息子(二人は同じファーストネームなのだ)のバスケに加わった後のシャワールームの場面で、ラファ息子は何やら自分の股間を気にする。ナレーション(=クロードの綴った文章)にその描写は無いので、これはそれを読んでいるジェルマンの「創造」だと思われる。後日その「創造」を受けたかのように、クロードはラファ息子が「クロード」に激しいキスをする場面を書く。
「教室じゃ最後列の、誰からも見られず誰もが見える席」が好きなジェルマンとクロード。始めは教壇の上と下で、やがて机を挟んで向かい合って、並んで、前になり後ろになり、クロードの書いたとある「結果」にジェルマンが憤慨した日には教室の対角線上に腰掛け、「物語」を共有する。争いの後にはクロードの口からジェルマンへと「直接」物語が注がれる。読んで読まれて、「物語」は二人の間でめくるめくものとなっていく。やがてナレーションが消え、現実と虚構、ジェルマンとクロードの境界がぼやけ、ただ「この映画」だけが降り注いでくる。変な言い方だけど、「頭を空っぽにして楽しめる」という慣用句、私は大嫌いなんだけど、もし使うとしたら本作についてかな、なんて思った。


ジェルマンはクロードに「物語」のあるべき図を板書して教える。「主人公」と彼が「求めるもの」との間に、加えて「主人公」の中に「障害」が存在する。それらをどのように乗り越えて「求めるもの」を得るのかという描写を、読者は求めているのだと。
後にクロードは自分の「物語」をその図をあてはめて見せる(ここで彼が「物語」を囲うのが原題「Dans la maison(家の中で)」)。「クロード」が「求めるもの」はラファの母エステル、「障害」はラファ父とラファ息子。当たり前のことを言うようだけど「エステル」はモノじゃないだろう、と思うが二人ともそんなことは意に介さない。クロードのエステルの捉え方は、教員であるジェルマンが「生徒は『個人』ではなく『未来』だ」と言うのにどこか似ているなと思った。結局二人はそれぞれ「求めるもの」を得られずに終わる。
二人が「失敗」する直接の原因は、クロードの文章が次第にジェルマンの好みに反する「ロマン主義」的なものとなったことによる不和だ。しかし「物語」を愛するはみ出し者同士、二人はよりを戻す。かつてジェルマンが書いたが売れなかった、妻いわく「陳腐な恋愛もの」の小説を読んだクロードの「面白かった」という言葉には「皮肉」じゃない暖かさがあった。ラストシーンでは二人は何も介さず、ただ「新たな物語」のために「客席の最前列」に並んで座る。


ジェルマンの妻ジャンヌを演じるクリスティン・スコット・トーマスの素晴らしいこと、彼女のファンとしては大満足の映画でもある。初めて登場する場面での、黒いストッキングの黒い靴を脱いでソファに座る姿は黒猫の王女のよう、老眼鏡を外して喋る姿は少年のよう。それでいてとても俗っぽい女なのがいい。なにせ夫が最近セックスしなくなったのは教え子であるクロードを好きになったからでは、なんて短絡的に考えちゃうんだから。最近なら「サラの鍵」のような映画もいいけど、オゾンの手による俗っぽいキャラクターの中でこそ、彼女のあの顔が、雰囲気が輝くのだとあらためて思った。


マニッシュな格好のジャンヌとジェルマンがアートについて会話する場面でダイアン・キートンウディ・アレンが脳裏に浮かぶと、そのうち二人は映画館に(アレン作の)「マッチポイント」を見に行く。またクロードの「物語」の内容に「『テオレマ』か」と突っ込んでいると、それを読んだジェルマンが「パゾリーニじゃないんだから」と口にする。こういうあからさまなやり口のおかげで、ジェルマンとクロードだけじゃなく映画と観客(私)の間にも共犯関係があるかのように錯覚できる(笑)映画と観客の共通言語は「映画」なわけだ。
ラストシーンはヒッチコックの「裏窓」。でもジェルマンとクロードが見知らぬ人々を元に勝手な「物語」を作って遊ぶこの場面には、「デート&ナイト」のスティーヴ・カレルティナ・フェイの夫婦を思い出した。冒頭のレストランの場面は、私が一番好きな「映画におけるデートシーン」の一つ。「物語」を共有できる、面白がることができる二人は、いいパートナーになりえる(実際私のうちだってそれに近い・笑)。だから本作の「ラスト」は、ここでのジェルマンの風貌のように悲惨なものじゃ決してないのだ。