スウィート・シング


上映前に流れた日本の観客へのメッセージ映像でアレクサンダー・ロックウェルが「誰もにあった子ども時代の魔法を描いた」などと話していたこの映画の主役は、アダムとイヴの子ども達だった。アダム(ウィル・パットン)がアルコール依存症で病院に入れられたので残るイヴ(カリン・パーソンズ)を頼るも暴力を振るう恋人から守ってもらえず傷つけられ、逃げ出すはめになる。アウトローといっても子どものそれは、親を目指し親から逃げる旅になる。

雪化粧の街をゆく姉ビリー(監督の子、ラナ・ロックウェル)と弟ニコ(同、ニコ・ロックウェル)に始まる映画の最初のセリフは、ビリーの「クリスマスはお金がかかる」。私はあの年頃にそんなことを考えもしなかった…しなくともよかった。年長の彼女は贈り物を買い揃え家を飾り付け、食事を用意し弟と父親(!)を寝かしつける。親がやるはずのことを子どもがやる。後に知り合ったマリク(ジャバリ・ワトキンス)に水に潜ることを教えるのは(子ども同士ではないが)映画「ムーンライト」を思い出させた。彼の手引きで入り込んだ「金持ちは買うだけ」の空き家での場面が美しいのは、やらなきゃならないわけじゃない、「遊び」だけがそこにあるから。

韓国映画「殺人鬼から逃げる夜」と本作、数か月以内に二本も「図体の大きな男に担がれる」恐怖シーンを見るとは。この映画で大人が子どもにふるう暴力は、見せ方の技量も凄いとはいえ撮影時を心配してしまうくらい恐ろしかった。映画の終わり、子どもにずっと寄り添っていた物語が急転直下、アダムとイヴは「よく」なり子ども達の願いがかなう。病院で病気は治せる、「目覚める」ことはできる、それらは監督から子ども達へのプレゼント、大人達へのメッセージに思われた。


同時上映「イン・ザ・スープ」(1992)も見る。今となっては私には、ロックウェルが「フォー・ルームス」(1995)でワインスタインを知る前の映画に思われてしまった。彼及び彼に代表される映画における金周りのあれこれが、女の受ける被害を大いに含めて呑気に描かれているのだから(少なくとも最後にジェニファー・ビールス演じるアンジェリカがこちらに走ってくるのは、「ない」)。2010年に制作された、やはり映画作家の、いや映画作家だった男(ピーター・ディンクレイジ)が主人公の「ピート・スモールズは死んだ!」では映画はすっかり死んでいる。それが更に年を経て、ただの「愛の映画」を作るようになったのかなと考えた。

ともあれ「イン・ザ・スープ」と「スウィート・シング」は続けて見ると同じ魂が作った映画だと分かる。映画は腐りがちだから余計なものを入れず愛でもって作ろうという流れである。どちらもクリスマスに終わる、のではなく始まる、しかもクリスマスにお金がなく困っているのに始まるのというのもなるほどと思わせる。ただし、数多ある映画作り映画は大抵「男」の話だから私にはあまり心に沿うものがないけれど、子ども時代とは確かに誰にもあるから「スウィート・シング」の方がぐっとくるというのが正直なところだ(「共感」どうこうというより「平等性」がある気がして)。「イン・ザ・スープ」で寝具から飛び出して舞う羽毛の後始末を案じて子どもらを叱るアンジェリカ(ジェニファー・ビールス)をアルドルフォ(スティーヴ・ブシェミ)が「天使のようだ」と褒め称える場面には、映画の作り手とそれ以外、あるいは男と女の間にある齟齬が描かれているが、30年の時のせいなのか、映画がそれについてどう考えているのか私には推測できなかった。

週末&平日の記録


作ってもらったもの。
キャビア・ドゥ・オーベルジーヌ(貧乏人のキャビア)」は茄子にオリーブオイルやアンチョビペーストを混ぜたペースト。バゲットに塗って食べたら何とも言えないよい味わい。この日は他にラタトゥイユと、私の好きな唐揚げ。
NHKの番組を見て興味を持ったというアーモンドミルク坦々麺は、スープが本当に美味だった。


甘味いろいろ。
久々に立ち寄ったシナボンにて、ミニボンクラシックに期間限定のキャラメルりんごミニボンとキャラメルりんごチョコボンを購入。たまに食べるとやはり美味しい。
選挙に行って帰ってからは、同居人が作っておいてくれた柿のプリン。これも美味。


ビニエ。
セガフレード・ザネッティにて、マリトォツォみたいなビニエ(イタリアのシュークリーム)。中にフルーツソースも入っており飽きずに食べられる。
アンティコカフェ アルアビスのビニエは、一見そうと分からないけれどずっしり重かった。

モーリタニアン 黒塗りの記録


私達がまず見るのは故郷モーリタニアから引き離されるモハメドゥ・オールド・サラヒ(タハール・ラヒム)と彼をめぐる仕事を引き受けた二人、上司に「無料奉仕に許可は要らない、礼儀で報告しただけ」と言ってのけ、グアンタナモでは被るよう渡されたヒジャブを被らず相手から身を避けるよう言われても避けない、自分の意思のみで行動する弁護士のナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)と、911の際にユナイテッド航空175便の副操縦士だった友人を亡くしたという、感情を動かされるであろう事情を持った軍検察官のスチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)である。

起訴も裁判もなしに長期間拘束されているモハメドゥにつき、「無実か否かは関係ない、新法に基づき拘禁の不当性を訴える、不当なのだから勝ち目はある」と人身保護請求に臨むナンシーと、「有罪が確定すれば自分の手で死刑にしたい」と起訴の準備を進めるスチュアートが各々正当だと思う道をゆくと、半ばで同じ悪に遮られる。それは個人の名を消す組織である。

職員とその名を問うナンシーとの「ケネス、あとは機密だ」とは一見冗談めかしたやりとりだが、この映画は、最後の本人映像にある「アラビア語で名前を刻んだプレート」からの着想か、名前を求める者が、そうでない、つまり名前を消して組織の陰に隠れる者、ひいてはその組織に抗う話となっている。「具体的には誰を訴えるんだ」へのナンシーの「連邦政府ラムズフェルド国防長官、ジョージ・W・ブッシュ」にモハメドゥが「よし、のった」と答えて話は動き出す。

仕事から降りる決意をしたスチュアートの「違わないことが問題なんです」に表れているように、弁護士だって軍人だって同じ職ならば同じ学びを経てきているのに、二人のように自らの名前のもとに個人として活動する、いや活動できる者は少ない。更には名前を奪われる者もいる。モハメドゥを「マルセイユ」がお返しにそう呼んだ「The Mauritanian」というタイトルは、名前のない存在から名前のある存在への出来うる限りの運動を表しているように私には思われた。

映画は「現在」と「『自白』に至るまでの過去」とが同時進行していくが、始めに出る「真実のストーリー」の真実とは後者のことを指している、すなわちモハメドゥの手記の内容と「MFR」(Memorandum for the Record)とが一致していることを言っているのだと思う。モハメドゥがどんな時でも見せる笑顔は彼以外の誰もそれについてどうこう言えないのだとも思う。それでもスチュアートは勿論ナンシーでもなく彼によってなされる映画の終わりのスピーチにおける笑顔には、世界の希望を少し見た。

ハロウィン KILLS


アヴァンタイトルを丸々使って1978年にフランク・ホーキンス保安官(ウィル・パットン)の身に起きた出来事が描かれるのに、彼ってそんなに「重要」なキャラクターだったっけと違和感を覚えていたら、オープニング、彼から始めるんだと思わせられたアリソン(アンディ・マティチャック)のボーイフレンド・キャメロン(ディラン・アーノルド)の「殺された人にも愛し愛された人がいる」とか何とかいうセリフの通り、映画はまず、ホラー映画でざくざく殺されていく人々も人間なんだ!と言ってくる。

しかし、「誰彼かまわず」襲う殺人鬼というフィクションに大いに救われ楽しめる人が、私を始め特に女性には結構いると思うんだけど(災害などではなく人の手によってという点が重要である)、3年前の時点で既にその、ある種の平等性を得ているこのシリーズで今更死んだ人がどうとか言われても、知らねえし、お前ら誰だよと少々ノイズになってしまった。ジャンル映画の進化として「透明人間」や「キャンディマン」などが覆い隠されていた、すなわち抑圧されていた部分に光を当てたのに対し、ここでは世界それ自体が違うものと化してしまっているから、心動かされない。

(以下少々「ネタバレ」しています)

本作はジェイミー・リー・カーティス演じるローリーが大怪我を負って運ばれた病院から出ることなく終わる(出ようとして痛み止めを打つのが奇妙な見せ場)。「死んだ人も皆、誰かの何かだったんだ」によって院内が大騒ぎとなる中盤以降、映画は群衆の恐ろしさを見せてくる。伝播した恐怖に支配された集団の暴走で無実の人が自死する。映画の終わりのローリーの「目をそらしちゃだめ」から、見ないのは悪だが見るならきちんと見なければと言いたいのだと分かるが、この辺りの描写は丁寧さや新鮮さに欠け訴えるものがなかった。

特筆すべきは、「キャンディマン」同様冒頭よりゲイのカップルが出てくること(レズビアンではないわけだけども)。少なくとも三年前には完全に消されていたセックスの匂いがここにのみ濃厚に漂っていた、ただし昔のように不幸ではなく幸せなものとして。

ビルド・ア・ガール


キャトリン・モランの著作「女になる方法 ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記」(北村紗衣訳)を思えばえらく純でお行儀よく整理された内容だけど、それが映画というものなのかもしれない。最後に主人公ジョアンナ(ビーニー・フェルドスタイン)が私達に言い切るメッセージに沿い、何を見せ何を見せないかを強くコントロールしているふうに思われた。デブと苛められる場面があっても容姿をどうこうしようという気持ちや行動が描かれないのは、奴らの方の問題なのだから女の子にもう悩んでほしくないという願いゆえだろう。ロックスターのジョン・カイト(アルフィー・アレン)が彼女を恋の相手にしないのは、歳の差恋愛による、長じてからでないと気付けない被害をフィクションの方から断っているんだろう。

オープニング、図書館にて「大抵は謎の男の登場で人生が変わる」。でも当初よりジャーメイン・グリアの「去勢された女」を読んでいるフェミニストジョアンナはアヴァンタイトルでもう、男には頼らないとの宣言を済ます。帰宅して「私は定番のヒロインじゃない」。趣味も意見も異なる家族が揃って「トップ・オブ・ザ・ポップス」を見る、すなわち文化を共有している家に「自分ひとりの部屋」はない。「女になる方法」が見向きもされていないけれど確かに在ることについて話す本だったように、この映画も悪口を言いまくりセックスをしまくり家族に怒鳴り散らす友達のいないウルヴァーハンプトンの女の子なんていう、今まであまり見たことのない、でも全然普通だとも言える要素で紡がれている。兄クリッシー(ローリー・キナストン)との部屋の境界を「ベルリンの壁」、テレビを持って行かれたことを「『若草物語』のべスが死んだみたい」などと例える感覚もこれを補助している。

ジョン=私の世界は「ただ真実を一つ言ってほしい」と願っていたのに、「あなたに恋している」という真実は下界の天気に関わらず晴れている雲の上のように、瓶に詰めた願いのように、それだけで素晴らしいはずなのに、思うように受け入れられない時、ジョアンナの心はねじれて暴走してしまう。先へ進むには嘘も必要と思い込んでしまった彼女は、嘘をつくとは嘘に塗れることだ、誰かを傷つけ愛する人への愛を行使できないことだと気付き、「ドリー・ワイルド」を脱ぎ捨てて間違いから訣別する(なぜかこの啖呵の場面のみ、ビーニー・フェルドスタインの素のように思われてならなかった)。ここに描かれている、今の私達が見直さなきゃならない問題は、第一に愛を歌うより憎悪をつぶやく方がよしとされていること(ここにトム・ハンクス演じるフレッド・ロジャースが現れたらどうだろう)、第二に弱い立場の人間ほど真実を表明するという選択肢に恵まれないことのように私には思われた。

ジョアンナが初めて書き上げたレビューをTomorrow, tomorrow, I love ya, tomorrowと投函しに行く、列車に乗って面接に行く姿をこちらも心躍らせながら見ていたら、これはこの喜びからもう一つ先の喜びまでの道のりの物語なのであった。本物の喜びを自分に与えよう、その間に何があろうが構わない、軌道修正することが大事だと言っている。先の喜びの合間にさらりと体育の時間のナプキンネタを挿入するセンスがよく、「洗濯機が発明されるまで女は忙しすぎて選挙権を推進する活動すらできなかった」との印象的なセリフが「女になる方法」からそのまま取られていることからも分かるように、この映画には生理って大変なことなんだ、でも普通のことなんだという訴えも織り込まれている。クリッシーの「排卵かよ」にも声をあげて笑ってしまった、あの突っ込みなら受けたい。

かそけきサンカヨウ


原作未読。中学生が別れ際に揃って「がんばってねー!」とは何事かと見ていたら、これは「早く大人にさせられた」女の子、陽(志田彩良)の話であり、場面変わって彼女が自宅で一人餃子の皮に具を包む姿にこんなやばい内容をどうするのかと思っていたら、それは問題とはならず、ただ何かに吸収され見えなくなってしまうのだった。

(夕食時に時計が7時半を指しているのを私達に見せるのは、そのくらいの時間なら父親が何か買ってくるなどしろよと思わせる魂胆なんだろうか?)

序盤に二度だけある、喫茶店「赤い風船」に集う幼馴染5人の場面には、奇跡的な平等さとでもいうようなものがあり、はかなく美しい。四席+一席の丁度よい按排のそこから出るとそれは崩れてしまうのだ。それは陽の家の不在の父親(井浦新)の言う「真面目に話し合ったら壊れてしまった」大切なものと同じなのだろうか?

不在の父と不在の父を持つ少年・陸(鈴鹿央士)、男二人が次第に重なって見え、とはいえ前者の「真面目に話し合ったら壊れてしまった」が後者の「好きの種類が分からない」に通じるものだろうか、大人に比べたら高校生とはまだ子どもなんだろうかと思わせる。それでも映画の終わり、少年は真面目に全てを話すのだった。

私にはこの映画は、「やりたいことのために家を出た母親」の受容と引き換えに、進んで父の世話をする娘、外に出るより家にいる方が合うと在宅仕事する母親、「家に居ないお父さんが好き」な母親、最初の母親だって3歳からこっち会っていない娘がちゃんと分かる、それらを物語に差し出さないとダメと言っているように感じられて全く受け付けなかった。そもそも「真面目に話し合ったら大切なものが壊れてしまう」とは、端的に言って男の側が口に出すものじゃないと思うんだけど、そう言わせておきながら映画としては何も言ってこないので困惑してしまった。

(ダイニングに!置かれた母親の仕事机の脇に「ゴーン・ガール」が目立つように置いてあるのが気になってしまった、序盤の夕食時の時計と似た理由で)

携帯電話が使われるのが母と娘の間のみなのはなぜだろう?料理とは「誰かに教えてもらうもの」(=受け継ぐもの)なんだろうか?高校生とはやりたいことが見つからなければ悩むものなんだろうか?まあ、そういうこともあるだろうけど、それにしても(監督のいつもの作品と違って)何か紋切型というか生気の無さが引っ掛かる映画だった。