〈主婦〉の学校


アイスランドレイキャビクにて1942年に創立された「主婦の学校」の現在を捉えたドキュメンタリー。居間のソファの真ん中を陣取るジャスティン・ビーバーの顔入りクッションは誰かの置き土産か。冒頭、入学したての学生達が私はこれが出来るようになりたい、私はあれがと集まって話す場面に、そうだなあ、もし私ならと考える。学校を見るには色々な視点があるけれど、この、入学前の学生に具体的な目的があるか否かというのは目立った特徴である。景気によって入学志望者の数が著しく変わる、毎学期の一ヶ月前に運営許可が降りるなども大きい(教員の心労たるやいかほどか)。

教員経験者に教案作成時に困ることはと問うたなら上位に来るであろう「その時点での能力差が大きい」問題、お裁縫の先生の「ミシンに糸を通せない子から服を作れる子までいる」と聞いただけで私としては既に服を作れる人からもお金を取れるだけのどんな授業をすればいいのかと胃が痛くなるけれど、そうしたところを深堀りするものではないこの映画ではさらりと流される。学校初の男子学生(1997年在学)と校長のやりとり「食洗機だけは買った方がいい、読書の時間が増えた」「でも手洗いもいいもの」「20年間はやったよ、僕がね」には、個人内での能力のレベルをある程度揃えることも目標なのかなと思った。お裁縫の先生が「新たな興味の対象を見つけられたら」とも話していたように、冒頭の学生達が他の何かにも喜びを感じられるようになればいい、そうした場はなかなかない。

現在は芸術家である先の男子卒業生によると、「(学校側から)入学する時にまずトイレ掃除をして、屈辱的に感じないかどうか試してみてと言われた」そう。いわく「男性の中にはおれにトイレ掃除をさせるのか!と怒る人もいるからね」。彼の話は、変な言い方だけど、新たな発見というよりそうだろうなあと思わせられることばかりで、例えば男子学生に不慣れな教師に「いいですかgirls、いやkids」などと言い直される中、自分が女子の一人になるのが嬉しかったなど。それにしても、校長が「もちろん男女共学です」と言ったところで在学生が若い女性ばかりであることについて、この映画からはそれが今のところのある結果なのだという答えしか導き出せず(「逆に」アイスランドだからそれでも成立しているんじゃないかとは思う)、少し物足りなく感じた。

週末&平日の記録


食後のデザート。
高田馬場のフラットリアに持ち帰り専門店がオープンしたので、「なめらかプリン」を購入。本当になめらかで美味しかった。
東武百貨店に開店した「お芋とポテトとさつまいも」では看板商品のスイートポテト「とろぽて」。小さいなと思ったけれど食べ応えがあった。


秋の味覚。
「お芋とポテトとさつまいも」で思わず注文した、期間限定のさつまいもと焼きりんごのシェイクは楽しい組み合わせ。
ファーイーストバザールのパンプキンジェラートには、スペシャルトッピングとしてパンプキンシードやブラックレーズンだけじゃなく柿まで。これも美味だった。

キャンディマン


(若干「ネタバレ」しています)

冒頭ウィリアム少年(長じてコールマン・ドミンゴ)が自室で一人、影絵遊びをしている。落語の「佐々木政談」にもあるように「子どもは大人を真似て遊ぶ」ものだが、ここで再現されているのは「黒人とその言うことなど聞かず逮捕する白人警官」。1977との数字に、今でも「それ」が存在すると知っている私達には、この映画が「何も変わっていない」と言っているのだと分かる、例え後のオープニングクレジットのように目が眩むほどジェントリフィケーションが進んでも。これは蜂に刺されて伝説…「無実とは程遠いが裁かれない者達」を殺す伝説となる男の物語である。

中盤、主人公のアンソニー・マッコイ(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)がコインランドリーでウィリアムからキャンディマンの正しき由来と「キャンディマンは今なお続く現実だ、象徴なのだ」との言葉を聞かされる時、映画の照準が一度びしっと合って冒頭の「何も変わっていない」が訴えなのだと再確認できる。この後に彼が恋人ブリアンナ(テヨナ・パリス)がキャンディマンの名を唱えるのを止める時、それより前に衝動的にそれをしてしまった人々はその名が意味するところについて何も意識せず、考えもせず生きてこられたのだと分かる。

キャンディマンの始まりたるダニエル・ロビテイル(トニー・トッド)と同じく画家であるアンソニー公営住宅カブリーニ・グリーンの跡地に建つ高級住宅に暮らし現代美術の寵児にならんとしているが、ウィリアムの「好かれてるのは絵であっておれ達じゃない」にそれでもぎくりとするのだった、空家にタクシーが巡回してきた時に身を隠したように。キャンディマンに憑りつかれた彼がそれまでとは異なる、ブリアンナいわく「解釈の余地がない」作品を手掛けるようになるのは、映画作りの姿勢への言及にも思われた。「被害者を特定の人種に特定する」、作品名「Say My Name」から表れたキャンディマンは、殺すついでに業界でもてはやされているふうの、解釈の余地がある作品を引き裂くのだった。

アンソニーの裸を観客の私達に見せつける場面が多い序盤に違和感を覚えていたら、この映画には、特に年長の白人女性の彼に対する性的欲望も表されているように私には見えた。彼の側は快活に礼儀正しく接しているだけなのに、特に何をしたいというわけじゃなくても、純朴で自分の言うなりになってくれるんじゃないかという存在への目線。それもまた「長く続いている、無視できない現実」なのかもしれない。

スターダスト


ドキュメンタリー「ビサイド・ボウイ ミック・ロンソンの軌跡」(2017)でロンソンの妻スージーが「ボウイは世間から攻撃されることを恐れていたけれど、ミックは気にしていなかった」と語っていたのが印象的だった、かつそうだろうなと思わされたものだけど(ここでの話の主体はロンソンだけど)、この劇映画にはそのことがよく表れていた。ボウイとは恐れつつ色々なことを試してきた結実なんだと。

映画は1971年のアメリカに降り立った一人の男(ジョニー・フリン)がデヴィッド・ボウイとステージネームを名乗るが「ジョーンズだろう?」とビザや書類の不備もあり怪しまれ、スーツケースの中の「マイケル・フィッシュのドレス」を馬鹿にされるのに始まる。彼はマネージャーのトニー・デフリーズ(ジュリアン・リッチングス)の口にした「アメリカで唯一の希望」にすがってイギリスから渡って来たのだった。「恐れと歌しか持っていない」彼が今の現実と渡り合っている人々から影響を受け、自身の内も顧みて、彼らがまだ見ていないものを掴むまでが面白く描かれていた。

マーキュリー・レコードのパブリシスト、ロン・オバーマン(マーク・マロン)は自分のことを「アメリカでボウイのたった二人の信者のうちの一人」と言う(「もう一人は君自身だよ、そうでなかったら困る」)。「(離婚の書類や家の証書など)おれの全て」を積んだ車にボウイを乗せて広いアメリカを巡るが、ドサ回りにうんざりしていたボウイはそれらを風で吹っ飛ばしてしまう。ぶち切れたオバーマンから、海の向こうでアンジージェナ・マローン)が彼を解雇するよう動いていたと聞かされたボウイは殊勝な顔で「ぼくは君がいい」と翌日から助手席に座るのだった。本作はこんなボウイ見たことない、と楽しい気分にさせられるフィクション、ロードムービーでもある。

車内にて「リトル・リチャードは最高だ」「大好きだよ、兄の影響でね」と身を乗り出すボウイの笑顔にこちらも幸せな気分になる。この映画には(「架空のロックスター」が既に存在していたということに触れない以外は)当時の音楽事情がふんだんに盛り込まれており、「ボウイは『ナイフ』のようだ」との売り込みを聞いた当人が「もっと会いたくなるような文句を使った方がいい、エルヴィスとディランの間に存在するとか」と助言すると、オバーマンがそのギャップにある綺羅星のごときミュージシャンの名をすかさず挙げていく場面など面白かった(なぜかCCRだけ日本語字幕になっておらず)。

旅の終わりに「ぼくには恐れと歌しかない」「じゃあ他人になるんだな」「誰に?」「自分で考えろよ」「くだらないアドバイスだ」とのやりとりの後、アメリカを「飛び立つ」ボウイ…ならば以降のジギー・スターダストまでの活動がはしょられるのも当然か。憑りつかれていたがゆえに手紙を書けなかったのか、単に気が回らなかったのか、連絡のないのに苛立ち脱走してきた兄テリー(デレク・モラン)を送った精神科病院で行われていた当時最先端のドラマセラピーで「おれがなるはずだった歌手」として「What Kind of Fool Am I」を歌う兄の姿に最後の刺激を受け「断片」をまとめる。ボウイがボウイになっていく。

(オバーマンとの会話に出てくる「イギー・ポップ」「ヴィンス・テイラー」「レジェンダリー・スターダスト・カウボーイズ」などがボウイがジギーを作る元とした「断片」であるとファン以外に伝わらないであろうことは、この映画の欠点と言えるかもしれない)

ボウイが作った曲の使用許諾は無理でもカバーしていた曲は許可を取れば使えるというので、作中2回の「マイ・デス」(オリジナルはジャック・ブレル)が素晴らしかった。一度目の半ば自棄という演出もよかったけれど、映画の終わりのステージでの、ボウイとしてジギーとして、ジギーも脱ぎ捨てる者としてのジョニー・フリンの歌の説得力のあること。映画の言っていることを音楽で体現しているという意味では「はじまりのうた」のラストのアダム・レヴィーンのステージに匹敵する(…とは言い過ぎかな、ボウイが歌っているのを聴くとやはりこれしかないと思ってしまうから・笑)。ちなみにルー・リード風のオリジナル曲「Good Ol' Jane」が全く琴線に触れないあたりも、文脈上「いまいちぱっとしない曲」がきちんと流れる「はじまりのうた」を思い出させた。

週末&平日の記録


同居人が得意のスコッチエッグを作ってくれた。ホワイトソースが敷いてあるので、添えてある蕪入りラタトゥイユと両方のせて食べられるのが楽しく美味。
私が作ったパエリアはエスビーのシーズニングを使った簡単なもの、だけど美味しかった(笑)同居人が用意してくれたのはカルディの「素」で作ったスペイン風オムレツとほうれん草のサラダ、野菜スープでよい組み合わせ。


流行りのピスタチオもの。
コメダ珈琲店シロノワール ぜいたくピスタチオは確かに贅沢、見た目がまずよい。
イリーカフェのマリトッツォ ピスタチオ&フランボワーズは通りすがりに見かけて持ち帰りにしてしまった。奥の方にたっぷり入ったフランボワーズソースが効いて美味。

キャッシュトラック


なぜこんなところにエディ・マーサンが?と訝しみながら見ていたら、彼演じる警備会社の管理責任者テリーは「人間」代表なのであった。君達の仕事は金を運ぶことで守ることじゃないとはいかにも穏当だが、それじゃあ誰かが殺されたらどうするか、しかと見はせず「悲劇」というので納得する、生ける者に気を遣う、それが「人間」である。対していや、悲劇の因をこの目で見たのだからそいつを同じだけの数の銃弾でこの世から押し出してやろうというのがこの映画の「悪霊」である。

(以下「ネタバレ」あり)

喉元までボタンを留め肉は好まず、正直に答えた者は解放し未成年を搾取する奴は即座に殺すパトリック・ヒルジェイソン・ステイサム)をボスとするグループと、軍上がりで普段は満足いく職に就けず「おれ達はマフィアじゃない」と入念な準備とミッションを繰り返すジャクソン(ジェフリー・ドノヴァン)をリーダーとするグループ。例えば現金輸送車で運ばれる、宙に浮いたふうの金をめぐる…世の中には宙に浮いた金があるとみなすグループにも色々な流儀がある。

最大値まで膨らみ切った金庫を狙う男達が仕掛けるいわば戦争は、強烈なギャンブルを見ているようだった。だって皆、命を掛けたくて仕方がないんだから。戦地に居る者は皆巻き込まれ、各々が小さくも大きな賭け…前に出るか後ろに引くかを決断せねばならなくなる。悪霊であるところのヒルを目にして一歩踏み出してしまったデイヴ(ジョシュ・ハートネット)の姿には、冒頭ハンドルを握る剥き出しの、無防備な腕が思い出されてならなかった。

007 ノー・タイム・トゥ・ダイ


(簡単な記録。「ネタバレ」に近いものあり)

「母親と娘」に始まり「母親と娘」に終わるこの物語はマドレーヌ・スワン(レア・セドゥ)が主人公にも見えたっていいのに、ジェームズ・ボンドダニエル・クレイグ)が出張ってくるから(当たり前だけど!)そう見えない。前作では父親の娘だった彼女は今作では恋人の子の母親であった(思えば「女王陛下の007」でボンドが結婚するのも、とある父親から渡された娘であった)。「世界規模の戦争を防ぐ」とはM(レイフ・ファインズ)のセリフだったか、諜報員が闘う所以の世界とはああいう「母親と娘」のことなのだ、でも身近な「母親と娘」をお前はどうしているか、という男性スパイもの…いや多くの男性につきまとうお決まりの矛盾。でも矛盾とか言っても総合的には「かっこいい」のが売りなわけでしょ?ということへのダニエル・クレイグの答えを見た。まあそれしかないと言えよう。

アヴァンタイトルで「次の行き先を教えてくれ」に「家」と答えたスワンはブロフェルド(クリストフ・ヴァルツ)との一件の後にそこしかなくなったのであろう、「家」へ帰る。今作では初めてQ(ベン・ウィショー)の自宅が出てくるし、そこへボンドを連れて行ったマネーペニー(ナオミ・ハリス)のハンドバッグも目立って帰る住まいがあることを意識させる。対して今や住居のないボンドの家とはどこだろう、少なくとも見ている私にはロンドンに戻りオフィスに向かう時にのみその言葉が浮かんだ。

新人エージェントのパロマ(アナ・デ・アルマス)の去り際のセリフは私には観客に向けた、これは作り物なんだという洒落であり、このシリーズの限界を示唆しているものに思われた(フィービー・ウォーラー=ブリッジが書いたのはこのあたり?)。それにしてもノーミ(ラシャーナ・リンチ)に向かってオブルチェフ(デヴィッド・デンシック)に「お前らの民族を全滅させることができる」なんてことを言わせたのはなぜだろう?「白人男性」が現場仕事をするのと彼女とがするのとでは全然意味が違うということが際立ってしまうじゃないか。そもそも彼女が元より仕事しづらそうだったのが心に残った。