平日の記録


ピスタチオの甘味。
有楽町マルイにオープンしたジョリッティカフェ有楽町店でマリトッツォ・ピスタチオのジェラート。まずブリオッシュ生地が美味しい。
パティスリー ユウ ササゲのタルトピスターシュはピスタチオ風味のタルトにピスタチオムース、その中にフランボワーズのコンポート。これも濃厚だった。

TOVE トーベ


「昔から心の中にあった古い家に、新しい部屋を見つけた」。私にはこれは、未知の自分を探検する物語を、主人公からある程度の距離を保って描いている映画に思われた。それなのに…それだから?映画の終わりにアルマ・ポウスティ演じるトーベの顔が自分に見えた(実際には何もかも似ていないのに)。

映画はトーベ・ヤンソンが、一家の頂点である父親ヴィクトル・ヤンソンロベルト・エンケル)、母親シグネ・ハンマルステン=ヤンソン(カイサ・エルンスト)、自分の三人の芸術家が共有するアトリエを出て「自分ひとりの部屋」を持つのに始まる。戦禍で荒れた室内を片付け、暖房は壊れ水道が通っておらず電気も使えないのを自分の手で住めるまでにする。トーベ自身と言っていいそのアトリエに在るのは仕事と恋(ベッド)…ちなみにこれは、トゥーラ・カルヤライネン著、セルボ貴子・五十嵐淳訳「ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン」の原題である、トーベが自らデザインして使っていた蔵書票に書かれていた「働け、そして愛せよ」そのものである。映画はそこに強くさわやかな風と来訪者(トゥーリッキ・ピエティラ、演ヨアンナ・ハールッティ)が入ってくるのに終わる。

実在の人物を描いたこの映画で最も脚色されているのは恋愛規範への当時(1944年~1960年頃)の社会の態度かもしれない。トーベと既婚者であるアトス・ヴィルタネン(シャンティ・ローニー)、あるいは女性のヴィヴィカ・バンドラー(クリスタ・コソネン、同ザイダ・バリルート監督「マイアミ」の姉役)がベッドにいた、いるのを大家や使用人に見られてもその場の誰もが普通にしている場面からは、女性やそうした関係が差別、弾圧されていた真実よりもあらまほしき姿を描こうという姿勢が伺える。尤もパリのヴィヴィカからの手紙の「噂になるから差出人の名前を変えて」や二人が隠語として使い最後には実際に歩く「リヴ・ゴーシュ(セーヌ川左岸)」といった言葉などで同性愛が抑圧されていたことは示されているけれども。

もう一つの目立った脚色いや特徴は、男はアトスだけ、女はヴィヴィカだけ、とのそれぞれの関係がトーベに与えた影響をシンプルに、はっきりさせている点(そもそもがその関係自体、事実とはかけ離れたところがあるけれども)。アトスの「恋を恐れはしないが溺れない」という信条、ヴィヴィカの、作品全てが自分自身だけどムーミントロールの漫画は「本業じゃない」なんてことはない、それもトーベなのだ、加えてそれでも他のことだって何だってやればいいのだと言う言葉。自分のために描いていたムーミントロールに子ども達が顔を輝かせる場面には創作活動の素晴らしさが語られている。イブニング・ニューズ紙との「フィンランドの子どもはおとなしいと思っていました」「そんなことありません、昔から…」のやりとりはトーベ自身のことなのだろうと面白く思った。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2021

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2021のオンライン上映で見た映画の記録。

▼宴の日(2020年韓国/キム・ロッキョン監督)

キム・ギョンマン(ハジュン)はイベントMCの仕事と白塗り顔をごしごし落としての父の介護と二つの場を行き来していたが、父が亡くなり葬儀の日にもお金のために真っ白な衣装で傘寿祝いに向かうことになる。譲ったのは妻が出産間近の先輩。おめでたいことと悲しいこととは表裏、くるくる地続き。だけど人生のどこにだって大事なことがあるんじゃないかという話である。

全ては地続きといっても、ギョンマンと学生の妹キム・ギョンミ(ソ・ジュヨン)が喪主を務める葬儀と、もう一つの、濃い地縁の中での葬儀は対照的である。若い二人はスタッフに頼り、とにかく安い商品を選ぶ。式場に一人残ったギョンミは叔母達から、弔問客が「お辞儀」している間はアイゴーと言い続けなければならない、しかし泣きはせず宴のように賑やかにしなければならないなどと教えられる(ほぼその手本が、もう一方の葬儀の場面に見られる)。しかし、知っていたらあんなふうに「ちゃんと」出来るものだろうか。「お線香の火を絶やさないのは死者が迷わず成仏できるよう道を照らすため」と聞いた妹は、兄の留守の間はとわざとその火を消してしまうのだ。「家長はお父さんだけ」と言っていた彼女は、父の顔を拭いた兄を今後は家長とみなすのだろうか。今の彼らの在り様は若さゆえなのか、これから先人達と同じ道を辿るのか、何かそんなことを考えてしまう映画だった。

▼ルッツ(2021年マルタ/アレックス・カミレーリ監督)

ジェスマーク(ジェスマーク・シクルーナ、実際に現地の漁師さんなんだそう)はマルタ島から離れず先祖代々の漁船ルッツで地道に魚を捕ってきたが、生まれたばかりの子が「発育不全」と診断され、その対処にお金がかかるというのでこれまで目をやることもなかった社会のいわば闇の部分へ足を踏み入れることになる。おりしも穴が空いたルッツにはしばらく乗れなくなる。

映画が進むにつれ、ジェスマークは「生活できるだけの漁をしていた」わけではなく、夫婦と子の暮らしが実際には成り立っていなかったと分かってくる。妻は愛する人に好きなことをやらせるため、好きでもない親戚に紹介してもらった興味もない仕事に就いたのだ。これは「発育不全」の子を「平均値」にするためには昔ながらのやり方ではもう立ち行かない、昔のままでは「普通」になれないという話なのである。妻の「漁師を続けていられるのは皆のおかげ」が見ている私の胸にも突き刺さる。そしてその世界の末端に、レストランや魚屋の客…だから遠く離れているけれどうちらもいるのだ。

▼国境を越えてキスをして!(2020年ドイツ/シレル・ぺレグ監督)

イスラエル人女性のシーラとドイツ人女性のマリア、愛し合う二人のロマコメながら試練の元が「レズビアン、ショア、結婚」(に加えて「どこへ行ってもあなたの元カノばかり!」)、お話はあってないようなものだけど、それらに絡む会話の膨らみを見る一作。「高校生の頃は気楽だったけど…」とのシーラのセリフには、主人公をその年代にした作品の数々を思い出す。

マリアが「先祖は代々土地を耕してきた唯のドイツ人」と言おうと、シーラが「悲劇のサバイバーじゃなく私の祖母」と言う当の本人にとっては「アドルフとエヴァの民族」。母には「あなたの祖父母は戦時中に何をしていたの」と言われる。その気持ちを無視しない、でも大事なものもある、そもそも「愛は厄介なもの」なのだとこの映画は言う。そこに到達するしかないのが、実は内容を表しているのかもしれない。

▼野鳥観察員(2020年オランダ/テレース・アナ監督)

孤島で一人、45年ものあいだ野鳥観察員として暮らしてきた男が職務廃止の決定を受ける。骨折しても本を参考に手近な物で治療するし、20年前にノートに記した内容も覚えている、海辺の小屋はまさに彼自身。だからそれを解体するよう命じられ困惑する。ルーティンを通じて自分が何らかの組織の一員のように感じていたのが、実は全然別の、人間社会という巨大な組織の一員であり、自身の状況が自身の意思でどうにかなるものではないと思い知らされ、抵抗を試みる。

彼は漂流者ではないから、流れて来たボールを、友達じゃなくサッカーの道具にする。しかし鳥が運んできた金髪のウィッグにより、人間、というか女性への渇望が呼び覚まされてしまう。それは何となく抱いている、女性という概念への憧れである。しかし人間社会どころか更に大きな力…台風により、彼は「鳥」に乗ってやって来た若い女性と遭遇することになる。それは彼の思い描いていたのとは正反対の女性、というか人間で、ダンスも何もかも思い描いていたようなものではなかった。でも現実であり、彼はその出会いによって救われた(最初は豆の缶詰を、鳥にするように渡していたのに!)。終盤のこの展開は私には意外なもので、かなり面白かった。

平日の記録


結婚記念日に一年ぶりの外食は、広尾のHASUOにて。個室でディナーのコースにカンジャンケジャンをつけてもらった。写真は最初に出るパンチャン、カンジャンケジャン、彩り野菜プレートに牛骨付きカルビを焼いているところ。写真はないけどふわふわのチルチョルパン(宮廷クレープ)やビーツで赤く色のついたチャプチェ、参鶏湯なども美味しかった。

殺人鬼から逃げる夜


手話話者が活躍する映画が増えている中、本作はいわば伝統的な、マイノリティがそこにつけこまれて狙われる作品。予告からは分からなかった要素やひねりが面白かった一方、男が女を襲って(男性も手に掛けていたようだけど)男が助けることになるという展開に、まじで迷惑すぎ!という感情が先立ってしまった。異なる言語が出てくる映画としては、冒頭の娘と母(チン・ギジュ、キル・ヘヨン)の丁寧な生活描写もよかったし、違う言葉を使う者は同じ場所に居てもレイヤーが違うというようなことをよく思うものだけど、特に自宅での場面などそれがよく表れており見がいがあった。

韓国映画・ドラマにままある(特に父親不在の家庭において)兄が家長として家族を管理している描写が冒頭に置かれており(多分にもれずそれを楽しげに描いており)少々うんざりしながら見始めたら…まあこれは外で殺人鬼が跋扈していることの前振りとして見ることもできるわけだけど…この映画が意識してそうしているわけではないと思うんだけど、これが終盤の、私としては超、超衝撃を受けた、「妹です」と言ったら他の男達が彼女をつかまえて(しかも軍人達が、軽々と担ぎ上げて!)渡してしまうという場面に繋がっているわけだ。近年一番の恐怖を覚えた。

舞台は再開発を控え住人が消えた暗い街(と思いきや、終盤意外な展開に)。凶器も中盤は韓国映画でお馴染みのアレ(パロディはそう映えず)。警察が間抜けで役立たずなのも韓国映画らしいけれども、それゆえ却って最後の発砲シーンは面白かった。変な言い方だけど抜け感があった。部外者(=警察)によるあの発砲で、殺人鬼と被害者によるある世界が幕を閉じたのだ。

クーリエ 最高機密の運び屋


GRU高官オレグ・ペンコフスキー/アレックス(メラーブ・ニニッゼ)がアメリカ人観光客に託した機密情報がモスクワ米大使館に届けられたところで「The Courier」とタイトル。その場限りの相手(運び屋)を探し続けねばならなかった憔悴の後に「good amateur」のパートナーを得た喜びが、グレヴィル・ウィン(ベネディクト・カンバーバッチ)と初対面時の「長い間この時を夢見てきた」との言葉や後に飛行機まで送った際に堪えきれず漏れる笑顔に表れている。ウィンがお役御免を言い渡されてもアレックスはなお彼を求め、ウィンもそれに応える。

冒頭、英国人セールスマンのウィンがクラブで客を見送っての溜息(とチラと見る腕時計、帰宅時分の雨)。スパイとなってからも英国に来た「アレックス」とCIAの「ヘレン」(レイチェル・ブロズナハン)をぶじ引き合わせた後に出る、溜息とは仕事が終わったしるしである。しかし一人一路のモスクワでは「スパイのルール」に従い全ての人間を疑いホテルの部屋でも気を抜けずピリオドがないため、帰りの便で溜息どころじゃない嘔吐をすることになる。一介の市民を演じるカンバーバッチの瞳の変化が素晴らしく魅せられる。

近年では「イップ・マン 完結(葉問4)」が印象的だった、男が家に帰るのに終わる映画というのがあるけれど、本作もそうである。面白いのは、冒頭は家の中において妻と夫の居場所がはっきり分かれていたのが、ウィンがスパイの仕事を始めると、疑念や恐怖でぶつかり合いながらも不思議と二人が融合していくように見えるところ。夫がスパイだと知ったシーラ(ジェシー・バックリー)の口からまず出るのが「謝らなければ」だったことからしても、アレックスの「君がしていることを知ったら誇りに思う」は当たっており、夫婦の根は同じだったというわけだ。そこからシーラの「仕事」が始まる…夫はスパイじゃないと主張すること、面会が叶えば謝罪の後、キューバから基地が撤去されたと伝えること。それは更にウィンからアレックスへと伝えられる。あのリレーこそがこの映画の夢、要、きらめきだろう。

スクールガールズ


感染症対応の授業の様子かと思ってしまった、少女達(原題「Las ninas」)が声を出さずに歌を練習するオープニングは、彼女らが声を出す寸前で場面が変わる。主人公セリア(アンドレア・ファンドス)と共に物語を経た後の、彼女が自信を持って歌を歌うエンディングに、これは少女が世界に溢れる言葉や文を自分のものとして使い始めるまでの話なんだと分かった。
十代の頃の自分が言った、あるいは友達や男の子に言われた中で覚えている言葉にはどこかで聞いたようなものも多いけれど、それは私達が言葉の使い方を学んでる途中だったから、そのいわば足掻きが表れていたからかもしれないと考えながら見た。

何歳まで生きるかな、おれは船乗り、港ごとに女がいっぱい、なんて自分達からかけ離れた内容の伝承歌でもってゴムとび遊びに興じる少女達、これは「子どもの光景」だ。そんな中、彼女らの足元には大人による大人にさせるための言葉が潮のように満ちてくる。修道院のシスターは愛とは何たるかを書き取らせる。テレビ番組では若い女性に囲まれたおじさんが「ゴムを着けるように」などとにやついている。
例えば友人が母親の箪笥の奥から出してきたコンドームでふざけることで、言葉が自分の中で少しずつ意味と距離を得ていく。やがて、バルセロナからの転入生ブリサがダビングしてくれた「地元のロックバンド」の曲で、セリアは他人の言葉を共感を持って口にするという経験をする。修道女を蹴散らせ(だっけ?)と口ずさみ、月曜日!火曜日!と踊る。それが進んで、お祈りだって、自分にとって然るべき時に口をついて出るようになる。

友達の家やクラブに行くとしても、セリアにとって基本的には家と修道院(学校)が世界の全てである。それがある日、ある理由でもって学校へ行きたくなくて、苛立つ母親に送ってもらう、戻ってくるかもしれないから待っていてと校内に入る、教室まで行って引き返す、ママがいない、あの長回しの場面は、昨日までの学校とは違う、彼女にとって新しい世界が開けた瞬間だった。あてがわれたものをそのまま受け入れられなくなったのだ。後にブリサと校内のあちこちに入ってみるのは、それじゃあそこに何があるのかという探検なのだ。この二つの場面は「学校」を捉えたものとしてはかなり面白く心に残った。