トムボーイ


映画なんかよりもっと何かを「体験」できるものがあるんじゃないか、例えばゲームとか食事とか…とは常に思ってきたものだけど、セリーヌ・シアマの10年前の本作は、映画でもまだこんな体験ができるんだとびっくりさせてくれた。

こんなにも私には分からないことがあるとの自覚を体験できる映画である。確かに子どもを育てたことがない、子どもの頃のことをそう覚えていない、兄弟姉妹がいない、今までシスジェンダーヘテロセクシュアルで生きてきた私は10歳のロール/ミカエル(ゾエ・エラン)とかけ離れている。でもこの分からなさはその距離のせいじゃない。作中の全てが何にも分類できないから、全編通じて映画がロール/ミカエルと一緒に歩んでおり先が見えないからである。対して他の数多の映画はいかに「お約束」に依っていることかと思わされる。

この映画では家の中(家族の、「ロール」の世界)と家の外(子ども、同世代の、「ミカエル」の世界)とがはっきり分かれている(林の中はそのどちらでもない場所だと言える)。訪ねてきたリザに遭遇し追い返した形の6歳の妹ジャンヌが床にぺたりと座る姿に何故だか映画の一番深い所に到達したような気がしていたら、これはいわば無風だった家の中が常に風の吹いている家の外と初めて繋がった場面なのだった。同様にドアを開けて母親(ソフィー・カッターニ)が「ミカエル」について知った時、外から風が吹き込んでくる。彼女がロール/ミカエルに風に耐えられるよう辛さを強いるのに対し、マチュー・ドゥミ演じる父親は外の世界に風が吹いていることすら気づいていないように感じられた。

カメラが順に映す少年達が「確かめる」と迫る場面はあまりに恐ろしいけれど、もしも私が映画のあらすじを知らずに本作を見ていたら、冒頭でこの主人公は「男」なのか「女」なのか知りたく思わなかったか、もっと言うならば知って安堵したいという気持ちを微塵も抱かなかったか、否定できない。それは少年達の態度と繋がっている。映画の終わり、ママに抱かれた赤子から離れて一人ベランダでフィナンシェを齧るロール/ミカエルは、世界に出てきたばかりの新しい家族もこれから風に吹かれるのだと思い、ひとまず一息ついてエネルギーを蓄えているように私には見えた。

ミス・マルクス


エリノア(ロモーラ・ガライ)が今しがた聞いた彼の講演について熱心に語る内容には全く関心を示さないエドワード(パトリック・ケネディ)が、「(幼少時よりの愛称のトゥッシーでなく)エリノアと呼んでもいいかい」とキスをする。後に彼女は(「人形の家」のセリフとして)「私は父の手から夫の手に渡っただけ」と言うが、振り返るとこれがその瞬間であった。自身の意思が通用するのは渡るか渡らないかだけ、どちらに居ても管理下にあることに変わりなかった。

後にエリノアが演説で述べる理想的な男女のあり方は「おそらく一夫一婦制、二人が融合すること」。しかし、キスで繋がったように見えるエリノアとエドワードは…現在の女と男の多くだって…実は融合なんてしていない。「人形の家」のセリフにもあるように、全然「話」をしていないんだから。むしろ「話」をしないことによってその関係が保たれている。昔も今も、男と女の間でなされるこの類のキスとはそういうもの、そこから分断が始まるという矛盾のサインなのかもしれない。

話といえば、エリノアが労働者から聞き取りを行っている背後で、エドワードを始めとする男達が同じような者同士で固まって喋っているのが印象的である。エリノアは身近な女性達から彼女らのかなわぬ夢、あるいはかなえんとしている夢を聞くが(その多くは「自分だけの場所が欲しい」というものである)、作中の男女の間でそれはなされない。男達は、あるいは男と女は何を話しているんだろう?

白髪を染めながら動けないひととき、エリノアは本の中に父カールから母イエニーに宛てた手紙を見つけておそるおそる読む(なぜあそこに挟んであったのか?あれは父の手によるのだろうから、娘達の手紙が順序よく整理されていたことを思い返すと、父は娘は管理していたが自身は管理していなかったのだとも取れる)。彼女が号泣したのは、先に書いたキスに始まる矛盾がいわば爆発したからと私は受け取った。矛盾を呑み込んで生きる時、踏む方は余計に踏むことになり、踏まれている方は余計に踏まれることになる。愛していても踏まれるのは痛い。

ここには、結婚制度に依らずに誰かと関係を結ぼうとしても結局はその制度で損をしている側の者が別の形で損をすることになるという事実が描かれている。おしきせじゃない生き方を実践しようとすると、そこにもおしきせの基である差別による踏み付けが発生する。そんなことは既によくよく知っている。フィクションならばそれを再確認する以上の何かが欲しかったけれど、この映画にそれはなかったかな。「事実の隙間を埋める」タイプの映画であることの、「事実」部分が活かせていなかったかな。

浜の朝日の嘘つきどもと


「コロナがとどめだ」と言いながら誰もマスクをしていないのだから、これはそういう映画…映画ならマスクをしていない方がいいだろう、つまり映画ならそっちの方がいいだろうという要素で出来上がっている映画なわけで、馬と糞のオープニングから不自然なところは幾らもあれど余り気にならなかった。浜野あさひ/茂木莉子(高畑充希)と森田(柳家喬太郎)の「正しさだけじゃ割り切れない」「でも『これでよかった』にするために頑張らなきゃ」というような作中最後のやりとりには、正しさに依拠しないことをするなら努力も必要と言っているのだと受け取った(ただ対義語が色々ある上に昨今は使い方の難しい「正しさ」をどう定義しているのかいまいち分からず)。

たまたま上映前に同居人と、今の女性は腕時計をあまりしない、でも教員はすることが多いかもという話をしていたので、教員役の大久保佳代子が登場時に腕時計をしていたのが面白かった。彼女のファッションはどれも最高で、特に卒業後の浜野あさひが自宅を訪ねた際のキャミソールとカーディガンなど、確かにああいうのが流行っていたしいかにも着ていそうで笑みがこぼれてしまった。茂木莉子の纏うお洋服の数々の「映画」感も全然ありだけど、現実味もやはり欲しい。

一方で落語ファンには私服にしか見えない支配人役の喬太郎のファッションは本人に寄せているのか役どころに合わせているのか(でも少なくとも中のTシャツは「衣装」だろう)。うまいわけではない演技に例によって違和感を覚えながら見ていたものだけど、中盤の怪獣映画についての独り言で、いつもの(=高座の)喬太郎じゃん!と思ってからは単に喬太郎として見るはめになり、それ以降は全然よかった。不思議なものだ。高畑充希と芸人二人という組み合わせはバランスが取れていた。

しかし「嘘をつく」ことについて語る映画だとはいえ、日本語ネイティブの役者(佐野弘樹)が非ネイティブの外国人をよりにもよって「片言」で演じているのはかなりの難。日本語学習中(「片言」であることから察するにそうなんだろう)のベトナム人は文をああいうところでは決して切らないし、使っている文法や語彙が高度すぎる(「話す」とそれ以外の技術との能力の差が大きいとも考えられない)。非当事者が演じることに一万歩譲るとしても、もうちょっと、そういう人がどういうふうに喋るか作り手側に勉強してほしかった。失礼だと思う。

週末の記録


季節の果物。
サンフルーツのフルーツババロアはさすがに果物が美味な上、同居人が梨を足してくれたのでとても豪華になった。
RINGOでは季節の分かれ目そのままに「焼きたてカスタードチェリーアップルパイ」と「焼きたてカスタード安納芋アップルパイ」。カスタードと具材がよく合って、とても美味しかった。

モンタナの目撃者


監視塔でハンナ(アンジェリーナ・ジョリー)が少年に「あなたは信頼できる?」と問われた時、逡巡するのかと思いきや、彼女はこちらを、「幸せへのまわり道」のトム・ハンクスほどじゃないけど見据えて「私は間違いなく信頼できる」と答える。あの目に映画の神髄があったかな。

「主人公は荒くれ者の中の荒くれ者だが責任感の強さゆえトラウマ体験に悩まされている」という一億回は見て来たような冒頭。しかしその主人公は「女」である。そのため「セックスはどうしているのか」(「おれとやらないか」「野糞してるところを見たことのある男とはやらない」「おれも同じだ」「『男とはしない』?」この最後の返しが一捻り)「なぜ一目置かれているのか」(ペタンク的な遊びに片手間で参加するもその業がすごい)などの描写でもって彼女がそこに居られるのには要因がある、それは彼女に依る、と言っているんだけれど、問題は男の方にあるんだからおかしな話だ。あんなもの不要だしそのエクスキューズのせいで映画がもたもたしていた。

(以下「ネタバレ」しています)

…ということに引っ掛かった点を除けば面白い映画だった。舞台は保安官イーサン(ジョン・バーンサル)いわく「(「塔に銃はあるか」と聞かれて)モンタナの山の中なんだからあるかも」、すなわち死に直面する可能性のある土地。そこへ「正しいことをした」一人の男性(ジェイク・ウェバー)が決してそれを後悔することなく息子と共に逃げてくる、それを組織が「金をけちって」一組だけ送った殺し屋ジャック(エイダン・ギレン)とパトリック(ニコラス・ホルト)が追ってくる。このことにより当地の幾人かが死の可能性に巻き込まれるが、それぞれ咄嗟にきっちり判断して自身を生き抜く。一方よそ者のジャックなどはもうどうでもよくなって死んでいく。

そういえば、同じく森林火災初動部隊が舞台の「ファイティング・with・ファイア」(2019)では、ジョン・シナ演じる消防士が救助した子らを養子にすることでよくない男性性を脱ぎ捨てたことを表していたものだ。本作の場合は主人公が女性なので、せっかく少し平らになった世界がまた傾いてしまわないよう、助けた少年を引き取るという単純な結末ではなく「一緒に考えよう」となるわけだ。妊婦のアリソン(メディナ・センゴア)が鹿撃ち銃を取って自分と夫を狙った相手を殺しに出向く姿には、「白頭山大噴火」のお決まりの妊婦描写(臨月である点も含めて)にがっかりしていたところなのでせいせいした。

平日の記録


チョコレートの入ったマリトッツォ。
ゴディバカフェのとなれば買ってしまったマリトッツォ ダークガナッシュはチョコレートがさすがに濃厚。
ディーンアンドデルーカのピスタチオ&エスプレッソチョコレートはエスプレッソ入りのホワイトチョコレートがアクセントで食べやすかった。

シャン・チー テン・リングスの伝説


映画は攻城戦に始まる…と思いきや、トニー・レオン演じるシュー・ウェンウーがテン・リングスでもって相手側の門を一気に破壊し戦いはなくして終わる。彼は人の門を壊し続けてきたんだろう、その中にずかずか入り込んできたんだろう、でも自身の中には誰も入れようとしないんだろう、要塞や決して開かない拳からそのことが見て取れる。

ウェンウーも妻イン・リー(ファラ・チャン)と暮らしていた間は彼女に教えられ拳を開いていた。「ウェンウーと呼んでいたのは妻だけ」とのセリフに、この物語では自分を本当の名前で呼ばせることと掌を開くことは似た行為なのかなと考えた。彼のような男にとっては勇気のいることなのだと。シャン・チー(シム・リウ)に対するケイティ(オークワフィナ)の「シャン・チーからショーンって、そんな変名じゃバレるに決まってる」とは単なるからかいのようで、本名に近い呼びやすい名を選んだ15歳の彼が出自を断ち切れなかったこと、否応なくその名を明らかにした現在の彼が試練に立ち向かわざるを得なくなることを示唆している。

冒頭シャン・チーがいつものようにケイティの家で朝食をごちそうになる一幕がいい。彼女の祖母に「そこはおじいちゃんの席だ」と言われ謝って退き、その後に話を聞く笑顔に一秒で心が溶けた。亡き夫に風習の贈り物を続ける祖母の肩を持つ母と、ケイティの「ママはアメリカ人じゃん」とのやりとりを振り返ると、千年生きるウェンウーが死者への未練を断ち切れないのは「中国人」だからとも受け取れる。そこに開けない拳と強大な力が備わったら?人は弱いものだから、どこまで滑り落ちるか分からない。

シャン・チーの妹シャーリン(メンガー・チャン)は父親に禁じられた武術を見よう見まねで隠れて覚えるしかなかった。かつての母やその後に会う伯母イン・ナン(ミシェル・ヨー)は平等にこだわり小さな彼女の方を先に呼んだりハグしたりするが、先のケイティの家での場面と対になっているような「とうにばらばら」の家族の夕餉での彼女の表情は、「家」での鬱屈はそのうち霧消するだろうと軽視されるものではないことを語っていた(一方でシャン・チーには父の拳の影響が強く、母が教えた「死者は自身の心の中に在る」ことを村に来るまで体得できない)。だから…「アレ」には結構、そうでなくちゃと思わされた。