アナザーラウンド


見た日が近いのでそう思うのかもしれないけれど、「ドライブ・マイ・カー」に大変通じるものがある映画だった。主人公の家福と表裏の存在である高槻が話せないからとまずセックスするように、本作の男達は酒を飲んで酔うことで相手との間にある壁を壊そうとする。

歴史教師マーティン(マッツ・ミケルセン)の当初の授業は笑ってしまうほどひどい。何を話しているのか分からない、すなわち学生に何も伝わっていない、伝えようとしていない。教員経験者なら胃が痛くなるだろう、誰もがああ滑り落ち得ると分かっているから。いやたまたま教員に仮託して描かれているだけで、見た人皆がそう感じるかもしれない。
それが「血中アルコール濃度を0.05%に保つ」実験開始後の初の授業は楽しいものとなる。しかし力が漲った時、教員がそれを注ぐべきなのは授業の準備に使う根気やひらめきである。それを怠れば「滑り落ちる」。そんなもの絵にならないしそもそもが教員の何たるかを描く作品じゃないとはいえ、マーティンや仲間の授業の面白さは努力の結果というより本来持っていたものが表に出てきただけといった感を受ける。冒頭の「おれは昔と変わったか?」との妻への問い掛けが思い出され、彼らは自分から何かが失われた、あるいは堆積した、つまり「昔のようじゃない」ことが原因で今、行き詰っていると考えているのだと分かる。

彼らが酒量制限を解除するに至り、映画は政治家の、酒を飲んでいるらしき姿を次々と見せてくる。私にはそれらは「私」、あるいは一緒にいる人の方を向いていないふうに見えた。身近に大酒飲みがいたことはないけれど、大層酔っている人を嫌だなと感じるのは、自分に話しかけているのに自分の方を向いていないと思う時である。彼らもその沼に落ちていく。かすかな希望のサインに気付いて向かい合うことができない。
授業中のマーティンの、教卓の前部に寄りかかったり発表中の学生の席に座ったりという動きは私もやるけれど、あれらは微妙で危険な行為である。体が学生に近いほど、その中に入っているほど、何かが伝わるとは限らない。ああした場面を見ながら、作中行われるのがオンライン授業ならどうだったかなと考えた。それならば教員という設定になっていないか。

「(マーティン、「歴史上の人物」の写真を三枚貼り)この三人の紳士の共通点は?」「(女子生徒)男ということ?」なんてやりとりを入れる目配せはよかった。私も「男」が揃ってるところを見たらまず男ばかりだなと思うもの。

ショック・ドゥ・フューチャー


1978年のパリを舞台に、「Le choc du futur」として前進する若い女性の一日を描く。音楽については無知なので「楽しかった」くらいの感想しか持てないけど、「電子音楽の創生と普及を担った女性先駆者たちに捧ぐ」との文とその名の数々で終わる女性映画だった。

「インドへ行った男友達」の機材付きの部屋でいつものように目覚めて作業を始めたアナ(アルマ・ホドロフスキー)のところへ、男が三人続けてやって来る。「仕事を与えて『くれる』男」「機械を直して『くれる』男」「文化を教えて『くれる』男」。彼らに悪気は無かろうけど、ここには家事以外のあらゆる領域が男によって占領されていることが表されている(修理くらいは彼女がやれたっていいと思うけども)。何とも言えない息苦しさを覚えていたところへ、彼らに教えられたローランドCR-78と新しいレコードに突破口を見つけたアナが作業に取り掛かり、再びやって来た一番目の男に未来の音楽について熱弁を振るい、やっと息がつけた(その後彼女が一人外を歩くカットが挿入され、更に息がつける)。

夕方、部屋に初めて女性がやってくる。この歌手クララ(クララ・ルチアーニ)にアナはコーヒーと、後には葉っぱを振る舞う(ソファで「シャピシャポ」を見ながら笑い転げるシーン、コロナ禍の今見ると恋しさに胸が締め付けられる)。音楽談義や共同作業の際の二人をフラットに捉えた画の輝きよ。しかし晩に主催したパーティで、業界の権力者の男に自身の曲をパリじゃ売れないと否定されたアナは一気にやる気を無くしてしまう。その男に部屋に入るなり脱いだコートを渡された弁護士ポール(ロラン・パポ)が彼女を慰める。このキャラクターをなぜ男性にしたのだろうと見ていたものだけど、よく取れば彼女の叫びを引き出すためかもしれない。皆に聞いてもらうには自分一人の力じゃ足りないのだ、でもって必要な力を持っているのは男だけなのだと(これは女同士なら自明の理なのでセリフにならない)。しかしその後、別の女性との出会いでアナは回復し、夜明けにはポールを振って作業に戻るのだった。

見ていて気になったのは、作中の男達による性的嫌がらせに全く現実味がなかったところ。この問題は女を人間と見ていない土壌にあり、表出される言動だけをどうこうしても根本的な解決にはならないわけだけど、この映画のそれらの描写からは、根っこがないところに言動の草だけを立たせているとでもいう奇妙な感じを受けた。全編を通じて「普通の(=嫌がらせなどしない)」男性の想像の範囲内の苦悩しか描かれておらず、呑気さに満ちていた。それでもポールの「あんな奴(=あんなふるまいをする奴)に君の音楽が分かるわけない」とは、門外漢の慰めのようでそうでもないと私は思う。それが「今」だ。

平日の記録


夏の終わりのあんこ。
ブルーボトルコーヒーのあんこ&くるみバターは手頃な感じ。うまいこと食べるのが難しい。
池袋にオープンしたアンドコのフルーツあんクロワッサンはパンもあんこも苺も美味しくて、さすがに専門店だと思わされた。


レモンのパン。
ポンパドウルではレモンのマリトッツォと「ウイークエンド シトロン」。デニッシュにレモンのアイシングが合って美味。
ディーンアンドデルーカのレモンロールはボリュームが嬉しかった。

白頭山大噴火


さしずめ「腰抜けハ・ジョンウの大冒険」。除隊一日前に引っ張り出された「民間人」の彼が、アメリカも中国もこっから出てけ、朝鮮が壊れちまうだろ!と叫ぶ。「感傷的だからこそ工作員になった」イ・ビョンホンはそんな彼だけは信じられると言うのだった。

体制のために動いてきたが今は娘と国を出ることだけを願っている工作員リ・ジュンピョン(イ・ビョンホン)と、家族のために仕方なく来たが自分に大役が務まるかとの疑念が湧いてきた大尉チョ・インチャン(ハ・ジョンウ)の心が分かれ道を前にしてふと接し、おれたちの求めてるものは同じじゃないかと気付く。チョ大尉が持ち歩く超音波写真にリ・ジュンピョンが自身の「保険」を吐き出したあれは、家族と国…北と南、いずれの国も…は表と裏、同じなのだと訴える素晴らしい小道具だった(結局使えなくなるわけだけども)。

この映画は、あの超音波写真が象徴している、一般的には女のものとされる世界とは真逆の、写真の裏に描かれた地図が表している、一般的には男のものとされる世界をざっと網羅している。今回はこっちを描くけれども、そっちと一体なんですからねというわけだ。更に「そっち」に属する者として、引き出しも開けられないほど非力なマ・ドンソク演じるカン・ボンネ教授(実際の出自と同じ韓国系アメリカ人役)を配しているのがうまい。しかし、あの写真が表すものはやはり「家族」であって、実際にはあの一枚に盛り込まれない世界がある。例えば「82年生まれ、キム・ジヨン」を始めとして去年から今年にかけて日本でも公開されてきた女性監督による映画の数々に在った世界である。あれらに描かれていたのは家族のようで実は個なのだから。

映画が始まって数分で、白頭山の噴火により4.25文化会館が崩壊。非核化宣言の仕上げをせんと北へ向かっているアメリカに先回りして核弾頭を盗み、爆破してマグマの圧力を逃そうという作戦が実行される(「盗む」とあっさり口にするのは民政首席役のチョン・ヘジン)。非核化の完了にこだわるアメリカに対し、大統領(チェ・グァンイル)いわく「(朝鮮半島の半分が崩れようとしているのに)黙って見てろと言うのか」。実のところアメリカは避難に際し「アメリカ人が先、アメリカが認めた韓国人は後」とやっているのだから。一方でチョ大尉が瀕死のアメリカ兵を見る場面には、それこそ教授の口から出る「国の運命も決められない政府のせい」の言葉が当てはまる。大きな責任はどこにあるのかと。

ドライブ・マイ・カー


男がセックスする時に求められることはない「なぜ?」が女には求められる。妻が自分以外の男とセックスしていた理由を彼女の内に求め続け行き詰まっていた男が、そうか、理由なんてないんだと気付くまでの物語である。北上した旅の終わりに家福(西島秀俊)が「いま分かった」と言う時、序盤に彼がドアを閉め階下に降り煙草に火を点けたところに車が「登場」する奇妙に印象的なカットが蘇り、あの時から彼にとって車はそれまでとはまた違った存在になっていたのだと理解した。何かこう、鎧のような。
そこに辿り着くのに家福が何をしたかというと、他者を車の中に入れ自らを預けることである。しかしその相手が(尋常ではない技術を持つ)若い女・みさき(三浦透子)であり、更に彼女の「告白」がダメ押しすることを考えると、女に対する幻想を解くのに結局は女の力を借りなければいけないのかと少々がっかりさせられる。

原作では「運転しなかったので」で済まされている妻の運転への対応や、みさきと初対面時の「私が若い女だからですか」「僕はそんなこと『気にしない』」とのやりとりなどが、村上春樹が長々書いた冒頭のいわば代わりになっている。家福がどういう男だか分かる。小説のその部分の締めの「人前で口にするには不適切な話題であるように思えた」との一文が表す思慮の半端さも、西島秀俊によって過不足なく描写されている。
家福は自分の苗字に話題が及ぶと「妻が結婚をためらった理由だ」と当然のように言う男だ(自分の姓になるものだと思っている)。原作では「妻」とだけ書かれていた女に名前が与えられ、家福も高槻(岡田将生)も彼女をその名で呼ぶ。葬儀の際の看板の苗字の部分は木で隠されて見えない。苗字で呼ばれる家福や高槻に対しみさきや音(霧島れいか)を名前で表される存在としていること、この点だけは作り手が意識的なのか否か掴めなかった。

(以下「ネタバレ」しています)

映画は村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」の他に同短編集に収録の「木野」の要素を取り入れ、妻に謎などなかったと受け入れた家福が「自分は正しく傷つくべきだった」と気付いて吐露するところまで到達する。
それでは、家福と対照的な存在として設定されている、もう一人の男の俳優である高槻とは何なのだろうか。原作では家福の方から彼に声を掛けているのが逆になっていたのは、高槻の、自分は空っぽだ、そこから抜け出せそうな手がかりが音さんの書いたセリフを言う時にはあった、という自覚を強調するためだろう。家福は自身の欠落に気付いておらず、高槻は気付いていながら適切な手段が取れず破滅してしまう。その直接的な原因を(未成年との性行為に加えて)相手を死に至らしめるまでの暴力とするのが、私にはちょっと理解できなかった。そこまでやらないと「退場」させられないのかと。

家福は自分が知っていることを妻に悟られないよう生活していた、辛かったけれど、何せプロの俳優だから。「観客のいない演技」という言葉でそれをさらりと表す原作においては、演劇いや演技は極めて個人的な出来事に留まっているが、映画ではそうでない。ワーニャを演じられなくなった彼が、みさきとの対話や仲間との仕事を通じ、演劇でもって世界としっかり繋がる。テキストと相手に自分を任せることにより、まず俳優同士の間に「それ」が起き、次に観客の間に広がる。作中最後の舞台は観客の大きな拍手で終わり、「観客のいない」とは正反対の状態で家福は退場する。
みさきに車を譲った後、家福はどうやってテキストを覚えていることだろう。別の車を買ったか、方法を変えたか、それとも…そこのところは色々と想像が膨らむ。

週末の記録


韓国旅行の気分。
池袋にオープンしたカフェ ド パリ アンポルテで購入した、ミニボンボンの苺とあおぶどう。一番下の層が子どもの頃に食べたゼリーそのものという感じで、昔の夏休み気分。
済州島のマンダリンタルトと苺ヨーグルトチョコレートは実に「お土産」で、こちらは今の夏休み気分。早くまた行きたいな。

Summer of 85


本当に16歳が書いた物語のようだった。同時に頭からお尻まで、韓国ドラマのラブラインならぬクィアラインとでもいうものにずっと貫かれており、未読の原作だってそうなんだろうけど、その組み合わせと強烈さがこの映画だと思った。

アレックス(フェリックス・ルフェーヴル)とダヴィド(バンジャマン・ヴォワザン)の間に実は介在していたルフェーヴル先生(メルヴィル・プポー/誘われたことを明かして「でも生徒と教師だった」と告げるありえなさの体現)、「女装していたおじさん」、「なんだよゲイ」、「女性を巡って争った後に…」、出会いの時には自らを死に晒していた男との再会での幕引き。クィアが家父長制の真逆に息づくものだとすれば、アレックスの母親(イザベル・ナンティ)への「たまには休みなよ」「母さん自身の意見が聞きたい」などもその範疇にある。
子どもとは、そこに居ない当人について大人達が話し合いを行う対象となる存在だと思う。本作でも教師と社会福祉士が向かい合ってアレックスに何を求めるべきか意見し合う姿が印象的で、こうした場面には作り手のオゾンの、過酷な道をゆく少年への、あるいはかつての自分が欲しかった優しい目線が窺える。

ダヴィドの言う「スピードの彼方」に対するアレックスの解釈は、彼らより少し上の年の時に初めて聞いた哲学の授業を思い出させる(16歳が書いたようだと感じる理由の一つがこれかもしれない)。決して追いつかないものへの運動が「無限」なのだと。しかしダヴィドは彼方に追いつき一体になることができる、それが夢がかなうということなのだと言う。それは運動、すなわち生をやめるということだ。彼がナイフ、いや櫛を開くのと共に鳴っていたシャキーン!という音が二人の最後の場面ではもう聞こえないのが、演劇的なそれじゃなく実際に迫っている死を感じさせる。
せっかくもらったヘルメットを、いつからかアレックスは被らなくなる。バイクの後部座席の彼の姿には、肉体を感じながらも好きな相手に「それ」があることが不思議でたまらず、離れることなく確認し続けたいという思いが見えた。それは死によって断たれてしまう。

物語の始めには、何を着ればいいか分からず、仕事に就くか(母親いわく「仕事には繋がらない」)文学の道に進むか迷い、「本物の親友」を求めているアレックス。「息子には本物の親友が必要」とこだわるダヴィドの母(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)もその反転に思われて、あのあと彼女はどうしたかと思う。
振り返ると私の頭の中からダヴィドは消え去り、心に残るのは彼が一度だけ流した涙の筋のみ。それは「君も同類だと思ってたのに」からの「ぼくを独占しようとした」で美しくも流れ落ちるのだった。あそこには、アレックスが見ていなかったいわば実の彼の手がかりがあると思った。