最近見たもの


▼ロード・オブ・カオス

ネタだよネタ、が通じなかったという意味では昨今の色々を想起させるのと同時に、普遍的なものなんだろうか、男性の青春が描かれている。まずは同性との関係を上手く築けない男性の話である。終盤恋人に「競争意識があるんじゃ」と指摘されるように、ユーロニモス(ロリー・カルキン)は序盤の「友達じゃねえ」を始め、男達の中での自分の立ち位置ばかりを考え友達など必要なもんかと意地を張り続けている。

印象的だった場面が二つ。一つ目は釈放されたヴァルグ(エモリー・コーエン)とユーロニモスが対峙する場面。映画は全編通じてユーロニモスのナレーションで紡がれるが、本人による吐露と共に見ている私達に映る彼と作中の人々に映る彼とは違うのだとここでふと気付いた。恐ろしいことだけど、そうなのだ、他人には外からの姿が全てなのだ。二つ目は人が他人を刺す場面、一度目はその衝撃が有効だったけれど、その二度目、早く終わってくれないかなと思いながら見た。残虐だからというんじゃなく、暴力とは元々ふるわれる側じゃなくふるう側の問題なので、しつこく描かれたら焦点が「彼」から「彼」へ移ってしまう。

「思い続けた女性と結ばれた」翌日、ホラー映画とポップコーンで二人くつろぐ場面からユーロニモスは眼鏡を掛けている。ジョン・レノンの眼鏡もヨーコと会った年からだったな(直接の切っ掛けはともかくね)、なんてふと連想した。



▼オールド・ドッグ

岩波ホールの「映画で見る現代チベット」にて観賞したペマ・ツェテンの2011年作。一番の長回しのところ、老人と犬が画面の奥…人が作った道から離れて山の方…へと歩いて行くところは、神のもとへ旅立ったのだと受け取った。

何でもそうだけど、一つだけじゃなく幾つか知ると、分からないことが次から次へと出てくる。私が見た数少ないチベット映画では病院に行く、というか医者にかかるのは女性ばかりなんだけど、男性には医者にかかれない、というかかかりたくないという何かがあるのだろうか。それ以外にも同じことが繰り返し出てくるのは、作り手のメッセージ以前に現在のチベットを描くのに欠かせない要素ということなんだろう。まず妊娠。それから「羊飼いと風船」の終盤でも見られた、袖の下、と言ったら違う意味になってしまうけど、服の下での値段交渉。あれはやはり、女性はやる機会がないのだろうか。

家族三人の間が、ぎすぎすしてはいないけれどもやりとりがなく、互いのことを外の他人から聞かされて知るという場面が多いのが印象的だった。この老人・息子・嫁(クレジットの役名)はチベットの非・都会における代表的な属性であって、そこに断絶があるということだろうか。



▼世界で一番しあわせな食堂

カウリスマキ兄の映画も好き、とはいえ特に楽しみにはしていないんだけど、見てよかった。弟とこんなに通じるところがあるのは初めて。通じる題材を扱えば根っこが通じる者同士からは通じるものが現れるのかなと思った。

毎度のことながら兄弟で歴然とした違いはある。アキなら労働やセックスをしても汗や言葉には表れないし、トイレから聞こえるのはおならじゃなく銃声ってところ。弟がこういうものだからといわば美学で伏せておく部分を描いてしまうから、飲まないままの「80度で淹れたお茶」などが気になってしまう。ただ、カリ・ヴァーナネン演じるバイク乗りが「おれの信条は『危険に生きる』だから」という理屈で異国のものに挑戦する姿には、ああ、これがカウリスマキ映画の「男」だなと思った。

くそ不味そうな料理ばかりのアキの映画が「ル・アーヴル」「希望のかなた」から色鮮やかに美味しそうになったのは、よその国から誰かが運んでくるものだから。ミカの本作はそのことを全面に押し出した話だとも言える。チェンが勝手に料理を作り始める姿に、そもそも食堂が繁盛するのは「よい」ことなのか、シルカはそれを望んでいるのかと思うも、そういえば少し前に「料理を作る、君が喜ぶ、客も喜ぶ、皆幸せ」という彼のセリフがあったのだった。そうだった、喜んでたじゃないかと自分を省みた。

週末の記録


土曜日は豆ご飯と鯛のにんにく味噌焼き、西武池袋の春の北海道うまいもの会で買ってきたアスパラのバター炒め、写ってないけど私の作った味噌汁。写真は暗いけど春らしく楽しい食卓だった。
日曜日はひじき蕎麦のペペロンチーノにニンニク味噌を揉み込んだ鶏肉と厚揚げとネギの炒め物、実家でがんがん採れている甘夏を使ったサラダ。私が作ったのは、イースターなのでデビルドエッグ。蕎麦と炒め物、超美味しかった。
デザートに、前日の催事場の混雑にすぐ出てきたため私が目当てのパフェを食べられなかったからと同居人がパフェを作ってくれた。フルグラにバニラヨーグルト、ハーゲンダッツのバニラ、舟和の芋ようかんを焼いたのと甘夏。そりゃ旨い。


北海道うまいもの会で購入した千歳もりもとのシャモニー。フランスパンの中に生クリーム(これはハスカップ味)を詰めたもので、軽くてがんがん食べられる。
京王百貨店で開催中の春の大北海道展では、ルタオのフレーズ マスカルポーネサンド。マスカルポーネムースをクッキーで挟んだもので、食べにくいけどとっても美味しい。

サンドラの小さな家


サンドラ(クレア・ダン)は、長女エマがしてくれたベッドサイドストーリーと次女モリーのレゴ遊びから自分達の家を作ろうと思い立つ。「聖ブリジットはコミュニティセンターを建てて皆を助けました」「そのお話、どうやって覚えたの?」「先生がしてくれたのは暗かったから、私なりに明るくした」。

ぼんやりした三つの人影のオープニングから、メイクにダンスと楽しいことをしているはずなのになぜか「陰」という言葉が頭に浮かぶ冒頭。振り返るとそりゃそうだ、暴力を受けている者がひと時でもそのことから逃れられる瞬間などないと思う。

女性支援センターを通じて滞在中の空港近くのホテルでは他の客の目につかないようロビーを通るなと言われる。暴力をふるう夫にばれないよう家を建てていることは秘密である。被害者なのに隠れていなければならない。サンドラの写真を撮ってSNSにあげようとする同僚を彼女が止めるくだりからは、被害者の現状、事例の多くは世の人々から「見えない」のだということが分かる。

「私に『なぜすぐ逃げなかったのか』じゃなく彼に『なぜ殴るのをやめなかったのか』と聞きなさいよ」(日本の「なぜ抵抗しなかったのですか」だよね、向こうに理由聞けよってやつ)。まともな質問をしない裁判長や「家を二つ手に入れるつもり?」(公営住宅の順番待ちの数字、650とかなんだけど!)などと攻めてくる夫の弁護士の前で、サンドラは「私は(あなた達と違って!)話を聞き続ける」と主張して、本来舐めずともいい辛酸を舐めた後に当然の権利をひとまず得る。被害者は被害者というだけで本当に不利益しかない。

夫がエマを通じて渡してきた昔の写真を見て、彼が恋しい、今のじゃなく昔の、元の関係に戻りたい、努力はしたのに、と泣くサンドラ。きっぱりした態度は取れず、訴状が届けば大工仕事中の仲間の前でかんしゃくを起こす。そんなの当たり前じゃないかと、映画は彼女の「感情的」な言動を映し出す。

そんなサンドラに対し「子ども達の前で泣いたって構わない」「努力しても全く通じない相手というのがいる」と優しくも諭す雇い主のペギー(ハリエット・ウォルター)。彼女は同様に掃除婦をしていたサンドラの母親がウイスキーを盗んだことにつき「パパのためになったからいいじゃない」と流す。パブの同僚はサンドラの「どこに住んでるの?」に「何人かで不法占拠してる」と答えていたものだけど、余っている物は使ってもいいだろう、システムに認められなくても。そういう精神の話である。

ノマドランド


年越しの花火を手にバンを出ておめでとうと歩き回るファーン(フランシス・マクドーマンド)。受け止める人の姿は映らない、いるか否かも分からない。でも善意を世界に放つんだ、それが今、世界に必要なものなんだ、という映画である。

ヴァルダやケリー・ライカートの旅に比べたら随分温かいなと思いながら見ていたものだけど、終盤浮かんだのは年始に見た「半島」。家族の中でのみ助け合いが行われる世界に抵抗してそうでない助け合いを行うのがこの映画だったが、本作にもそれに通じることが描かれているような気がした。
血縁、あるいは「家族になってもいい」ほど好かれることによって屋根のある暮らしが保証されるなら、その反対がノマドの先達ボブ・ウェルズによる「我々はこき使われた後に野に放たれる、野に放たれたんだから助け合わないと」。そこから降りた、自分が父親だった時にはしなかったろうに赤子を胸に「君もここに住まないか」などと言うデイブ(デビッド・ストラザーン)の整った顔の腑抜けて見えること。

しかしこれは野に放たれてもひとまず殺されるおそれのない人々の口調である。野に放った奴ら、その仕組みを放っておくのかと強く思う。殺されるかもしれない人々、放たれなくとも殺されるおそれのある人々、そうでなくても違う人々は助け合いだけで済ませるわけにいかない。
代用教員をしていた時の教え子に「今でも成績は一番?」と尋ねる時、ファーンには、彼女には仕事を持って自立してほしいという気持ちがあったのだろうか。単にそうなるだろうと漠然と思っているだけのように私には受け取れた。彼女からは世界がこうなってほしいという気持ちは感じられない。

事実を元にした映画における主人公が架空の人物である場合、その造形や作中の変化には作り手のメッセージがこめられていると思う。ファーンが気持ちを新たにする、あるいは気持ちに気付くのは、自分達と異なる存在である若者にシェイクスピアの詩を教える時。「あなたの美しかった夏は決して朽ちることはない」と口に出して伝えることで自身の変化を実感するのだ。彼女が教員をしていたことを踏まえると面白い描写である。
しかしなぜこのご時勢にこんなことを言ってくるのか、思い出というものに思い入れのないせいかぴんとこなかった。今の私にはありのままの世界との交流にはあまり興味が持てない。

ファーンがバンをメンテする場面は多くとも掃除する場面は無いのに、彼女が仕事で掃除、いや他人の汚物を始末する姿が何度も出てくるのが心に残った。作り物であろうとしっかり映る汚物からは、始末をしない人間の害悪が読み取れる(が、このことについてもファーンはさして気にしていないふうである)。
インフラから離れる暮らしなので、上下水道の苦労も多く描かれる。コインランドリーでの時間(と洗濯乾燥機つきの高価なバンとの対比)、バケツでの排泄。ファーンがパンツを畳む場面がよかった。女性の下着って特別視されがちだけど、日常なんだから。あれは色違いでセットで売っているのだろうか。

平日の記録


コーヒーに苺のケーキ。
ル パン ドゥ ジョエル・ロブションのカフェにて苺のモンブラン。中にあまおうが一粒入っており、瑞々しく新鮮な味わい。
カフェカルディーノのストロベリーキャラメルケーキはねっとり。オリジナルコーヒーによく合った。

水を抱く女



「形態は機能に従うと言いますが、(2020年にオープンした)フンボルト・フォーラムの姿は18世紀の王宮そのままです、まるで進歩は不可能だとでも言うように。それも一つの意見でしょう」

この映画を端的に表しているのがウンディーネ(パウラ・ベーア)によるこのセリフ(住宅開発省のガイドとしての練習)。機能、すなわち私、「ウンディーネ」が進化しているのに形態、つまり人の抱く「ウンディーネ」の概念、物語は変わっていないと言うのである。クリスティアン・ペッツォルトは敢えてこの古典を手に取り、そのように定められている女がいたならば当の本人は自らの意思をどこにどう発揮して生きるかということを描いたのだろう。

ウンディーネがこのセリフを口にする(正確にはその直前の)場面には興奮させられた。クリストフ(フランツ・ロゴフスキ)の「ぼくに解説して」に、「人前で話をする仕事あるある」だな!(少なくとも私にはある)と思いながら見ていたら、始めはちょっとしたプレイだったのが、次第に何かが乗り移ったかのように話し出す…いやあれが彼女の本質か。いつもなら模型を指して言う「今ならどの場所だか分かりますか」で場面は変わり、二人は実際のベルリンの朝を生きる恋人同士となる。

オープニング、「ぼくは話がしたいと言ったんだ、いつもなら会いたいと言うだろう?」と言う男に対し、ウンディーネは「そんなはずはない、留守電には会いたいと入っていた」と携帯電話を取り出す。この異様に映る行動から、第一に彼女が何かと闘っていること、第二に昔のままの形態のウンディーネが今いたらこんなふうなんだぞという、滑稽さを装ったちょっとした告発のようなものを感じる。

「ステイン・アライブ」でクリストフに蘇生させられたウンディーネは快感だったのだろう、「もう一度やって」とねだる。その後の沼のほとりのあの振り返りで(本国、日本共にポスターに採用されている場面で)、彼女は自分の生を強く感じ真に彼を好きだと知る。これは従来の「ウンディーネ」になかった要素である。出会って告白された男に愛を捧げると決められていたのだから。そんな彼女が「今までで一番幸せ」と語りかけるのは彼の留守番電話、窓の外に広がるベルリンの街である。

例えばシャーロット・ランプリングのような強烈な役者が演じても、いや、だからこそ、物語の終わりにそれは彼女だけじゃないと思わせる映画というのがある(これは「さざなみ」のこと)。この得難く素晴らしい感覚がこの映画にもあった。ウンディーネが専門外の王宮について話す契機となる、連絡も取れなくなったグロリアとは「誰」だったのか?都市にはこうして消える女性、定められた概念を生きざるを得ない女性が幾らもいるのではないか?誰も同じに見せる制服を着た女性ばかりがガイドをしているということが、私には薄気味悪く映った。

見た後に際限なく語れる映画というのがあるものだが、この映画の場合はどれだけでも語れるということが結局何も語れないということに繋がるように私には感じられた。「女性映画」を作るのが目的だったなら、解釈の揺れを許し過ぎるのは悪手だろう。自分の都合がいいように物事を見てしまうという私達の癖に一石投じなければ意味がないのだから(あるいは、この程度の意思の発揮でも、ある人達にとっては「一石」となるのだろうか?)。

週末の記録


学期最後の日に同居人が作ってくれたお弁当には、開けた瞬間に声が出てしまった。小骨を抜いて焼いた鯖にカニカマと人参の天ぷら、卵焼き。おかずに隠れて見えないけれどご飯はたこめし。どれも美味しかった。
日曜日、いつも料理をしてもらっているお礼も兼ねてミートパイを焼いてみた(生地は市販のパイシート)。成形の段で一難あったけれど見目悪くなく出来た。てっぺんに埋め込んだプルーンが効いて味もまあまあ。サラダなどは同居人が用意してくれて、こちらは美味。