クローゼット


今年最後を飾る韓国映画として充分満足。そんなに甘くないぞと若干の不満を抱きつつも、ハ・ジョンウ演じる悪い大人がヒーローになるまでの物語を胸熱くして見た。オープニング、運転席の父親がサングラスを外すと娘の方が目を閉じ視線が合うことはないという描写に親子間の断絶が表れていたのが、ラストにお茶目に回収されるのが上手い。

ホラー映画を面白いとも、そもそも怖いともあまり思わない私が好きな数少ない作品の一つが「インシディアス」シリーズ。その理由は同じ場所に二つの世界が存在するという設定(がはっきり説明されること)に「ロマン」を感じて胸躍るから。本作もそう。ハ・ジョンウ演じる父親がカフェインを摂って死者の世界に潜入する場面にわくわくさせられる。

作中最初の恐怖シーンの後に父親のパニック障害による妄想だと示されるため、それなら怖くないなと思っていたら、次の恐怖シーンに驚き震え上がってしまった。しかし程無くそれは怖がるべきものではないと分かる。これが話の根幹に繋がっている。死者の世界に入った父親が娘の名を呼ぶと、彼を認めた子ども達が瞬時に悪霊となりこちらを見る場面に胸を打たれた。例えば日本の「怪談」について言われる、なぜお岩さんやお菊さんが怖がられなきゃならないの?怖いのは男の方でしょう?というのと同じ問題がここにあるから。

娘を邪険にしていたくせに失踪するとあんなに心配するだなんておかしい、と言ったら多くの人に「そういうものだ」と一笑に付されるだろう。でも私のこの感情こそが作中のイナの気持ちに他ならないはずだ。事情があれど表出しているものが肝心なのだ。全ての悪い大人を代表して子ども達と相対するなんて理不尽を引き受けるハ・ジョンウの姿にはヒーローを見た。

年末の記録その1


同居人の誕生日に私が作ったごちそうは牛バラの角煮、ブロッコリーとれんこんとゆで卵と海老とナッツのサラダ、ブロッコリーの茎と人参のクリーム煮・プラレールマカロニ入り。テーブル一杯のつもりが貧乏性ゆえか全然一杯にならなかったけど、どれも美味。ケーキは私の好きなホテルメトロポリタンのクロスダインのもの。


クリスピークリームドーナツのホリデープレートセットには、恒例のサンタやスノーマン、スプリンクルなどドーナツが12個。今年の新商品はサンタ帽つきのキャラメルクリスマスベア。


クリスマスの夕食は同居人が作ったサルティンボッカとオニオングラタンスープとザワークラウトに、私も何かと言ったらそれじゃあとリクエストされたチャプチェ。全てがばらばらのようで一緒に食べると全然合って楽しかった。ケーキはこれも予約してくれておいたピエール・マルコリーニのノエル ドゥ ピエール。チョコレートムースとオレンジコンフィチュールが当然ながら合って美味しい。金色のアラザンなんてある?と思いきやパフだったのも嬉しい。

マリアンの友だち/タイムズ・スクエア

特集上映「サム・フリークス Vol.10」にて二作を観賞。これまで見てきたこの企画のうち今回ほど、こんなにも同じ要素が被りながらこんなにも扱いによりそれらの意味合いが違ってくるという二本立てはないと思った。それでいて根っこは同じ。毎度のことながら素晴らしい組み合わせ。


▼「マリアンの友だち」(1964/アメリカ/ジョージ・ロイ・ヒル監督)はニューヨークを舞台にした14歳の少女二人の物語。

初めて一緒に「探検」に出掛けたマリアン(メリー・スペース)とヴァル(ティッピー・ウォーカー)の「中国人に追われてる」という設定に、確かにピーター・セラーズが出てくる。二人は彼演じるヘンリー・オリエントに「円(「チップ」のつもり)」「オリエンタルバザールで買った笠」など東洋を重ねていく。セラーズがそうではないと分かっていながら異国の人間と見る(本作の「後」の)あらゆる映画の観客の愉しみは、少女達が恋に敢えて没頭するのにも似ている。

オープニング、マリアンがスクールバスを降りると木枯らしが吹いている。私などは止まないその音に厳しさを感じるが、彼女とヴァルはその風の強さゆえに接近し、嫌な先生の名前を言い合ったり歯の矯正具を見せ合ったりして親しくなる。遊ぶ時には走る、走る、ジャンプ、ジャンプ!ヴァルの帰宅時の第一声は「3歳の男の子を飛び越えられた」なんだから。

ホリデーシーズンにはカードが壁に、階段にあふれるマリアンの家の素敵なこと。彼女が生まれた頃に離婚したという母親とそのパートナーである女性との三人暮らし。家事を担当しているらしきその女性の方が暖炉の脇の大きな椅子、母親は小ぶりな椅子、娘はソファに座る。ヴァルの精神科医通いについてのキッチンでの大人二人の言葉「頼れるものには頼らなきゃ」「(ただ一人通院経験のないマリアンへの冗談として)正常者は黙ってて」が軽快。


▼「タイムズ・スクエア」(1980/アメリカ/アラン・モイル監督)はやはりニューヨークを生きる13歳と16歳の少女の物語。「すべてをニューヨークの地で撮影」との文で締められるこの映画は、ここに生きる人々を確かに収めていた。

二人と十も離れていない歳の頃に見てずっと心の底に抱いていたものの冒頭より思い出せずにいたのが、医師とニッキー(ロビン・ジョンソン)の「転がる石に苔は生えない」「『ローリング・ストーンズ』にそりゃ苔は生えないよ、金持ちだから」といったやりとりに割り込むパメラ(トリーニ・アルヴァラード)の「先生はその諺の意味、知っているんでしょう」に鮮やかに蘇った。私もあれにむかついたんだった。「テスト」のためだろうと涼しい顔してあんなこと、「普通」の神経をしていたら出来ないと今でも思う。くだらない話を振られると、二人は互いに横槍を入れて助け合う。

ニッキーは病院のドアを開いて踊って手招きしてみせる。パメラはあなたの全てが詩なのだからと歌を書くことを跪いて勧める(後にニッキーは認めた詩を、彼女に同じように跪いて捧げる)。二人は相手のために新しい世界へのドアを開け合う。終盤パメラが自分じゃない、よりによって大人の男と楽しそうにしているところを窺ったニッキーの、学生時代には小さなテレビで見たものだけどスクリーンでは瞳から小さな涙がこぼれていた。「なぜこんな気持ちになるのか」と彼女は言うけれど、あれは思慕の気持ちゆえだろう。

本作の冒頭、ニッキーが大人達に拘束されるとカメラは宙に上り、ティム・カリー演じるジョニーがラジオで「ぼくは鳥だ」と語り始める。映画に出てくる「ヒーロー」がビルの上から自分の守る街を見下ろす姿には少々の傲慢さを感じるものだけど、屋上からタイムズスクエアを望む彼には自身が上にいるという自覚があるように思う。彼がするのは力を使った人助けではなく、「あいつらも病気だ」と反抗するしかないニッキーに「君達は病気じゃない」と教えてやることだ。保護者のいない彼女、あるいは彼女のような皆に伝えるにはラジオがいい。でも物を言うとは力を振るうということなんだと忘れちゃいけない。

ニッキーには「(パメラと一緒の姿に)テレビのCMかよ」「タイムズスクエアの主ぶって」、パメラには「他人を犠牲にしているくせに」などと責められるジョニー役に、自身もはみ出し者めいている、加えて食えないやつの空気を何割かは持っているティム・カリーが、あの表情がぴったりだと改めて思った。物言う大人には、自分は憎まれ役であるという覚悟が必要なんである。毒づかれながらずっとニッキーをかばってきた民生委員、パメラの父親、精神科医といった大人達が最後に彼女を穏やかな顔で見上げているのも印象的で、今の私には、あそこに映画の優しさと真面目さが詰まっているように思われた。

週末&平日の記録


板橋区立美術館にて開催中の「だれも知らないレオ・レオーニ展」。駅から美術館まで初めての道のりを歩くのがまず楽しい。展示の内容も素晴らしかった。絵が上手いのに加えて、インプット、興味の幅、いやどんな言葉もそぐわないような吸収力がすごい。


冬アイス。
FAR EAST BAZAARでアラビアン・ジェラート。ベイクドアップルとジャンドゥーヤに、ホリデーシーズンらしいスペシャルトッピング。
ティキタカアイスクリームではやはり季節限定のかぼちゃと、ピスタチオ。どちらもそれぞれの味がして美味。

最近見たもの


▼また、あなたとブッククラブで

オープニングは仲間を紹介するダイアン・キートンのナレーション、最初のジェーン・フォンダの登場カットに気持ちがあがる。「お金持ち」で「男女の恋愛をよきものとする」四人の話だけども、アンディ・ガルシアの「君のファーストキスの相手は男?女?」など突然目配せが入ってくる。魅力ある映画だけど薬のくだりはダメだろう、男女反転の冗談とも取れないし…と思ったら2018年の作品なのか。二年間の変化は大きい。

女四人がめいめいの椅子、二つは組で(夫婦の暮らす家だから)あとは違うやつに思い思いに座って話し合う冒頭に引き込まれる。18年もセックスなしだなんて!(「そんな映画があったっけ」「洞窟のやつでしょ」が笑える)あんたには感情はないの?なんてやりとりに全く棘がないのは、ダイアンの言う「You know, we love you」が根底にあるから。四人は本心しか口にしない。正確には「自分に嘘をつく」ことはあっても仲間には絶対にごまかしたり見栄を張ったりしない。だからさくさく事が進む。彼女達が「恵まれている」からというのもあるのかもしれないけど。

迎えに来たガルシアと出掛けるダイアンを見送りながらの仲間の「前のデートでは妊娠したけど今度はもうない」とはうまいセリフ(若くして妊娠、出産してから生理を終えた今までデートをしていないということ)。この映画で最も印象に残るのは彼女の娘達からの自立。相手が年を取ったからといってこれがよかれあれがよかれと押し付けないでほしい、それがテーマに思われた。


ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢

「はじまりのうた」では最後のアダム・レヴィーンの歌声に音楽ってそういうものだから!とねじ伏せられたものだけど、こちらは最初にどかんとトレイシー・エリス・ロスの声の良さとダコタ・ジョンソンが「噛んだ」時の更なる良さをぶつけてきて二時間説得力を持続させる。え~っ!というドタバタからの収束には、昔ああいう感じで終わる少女漫画をよく読んだなと思う。悪くない。

友達じゃない女二人のやりとりがいい映画が好きだ。レコード会社での会議の後のトイレの場面にふと、そもそもトイレで会えるのは「女」だからなんだよね、やっぱり女同士だよね、などと呑気に思っていたら二人の間に大きな差があることを思い知らされる。

監督ニーシャ・ガナトラの前作は、大物コメディアンのエマ・トンプソンの元で働くライターを自分で演じるのにミンディ・カリングが脚本を書いた「レイトナイト 私の素敵なボス」。この二本、それぞれスタンダップを、音楽をちゃんと描いているところは同じだけども、それ以外の見どころはかなり違う。エマ・トンプソンが「白人男性としか仕事しない」のは自身の地位を守るためであり(皆彼女を普通にリスペクトしている)、本作のトレイシー・エリス・ロスが「男性としか仕事をしたことがない」というのは全然意味が異なる。先のトイレの場面はそれに触れる重要な箇所だった。


▼ニューヨーク 親切なロシア料理店

「誰の一番でもない」でも大丈夫、という話じゃないんだと残念に思うも嫌いになれない映画だった。「空室があるのに、掃除もベッドメイクもして帰るのに」「私がクビになる」(対比の「私のオフィスで寝て行って」)などセリフの数々がいい。

ロシア料理店のオーナー役のビル・ナイが自分の「ロシア訛り」について語るのに、何年か分を貯めておいたような、ひきつけみたいな作中唯一の笑いをゾーイ・カザンはするのだった。店の奥にひそむこのビル・ナイはどこか妖精めいており、「スタートアップ!」のマ・ドンソクに通じるところがある。尤もこちらが売っているのは「異国情緒」であり、彼は料理もしないけれど。でも「いつでもどこでも同じ味の缶詰」は原題「The Kindness of Strangers」とどこか繋がるように私には思われた。

「自分の持ち物はない、元々ここにあったものだけ」のタハール・ラヒムの部屋にぽっと温かく灯るりんご。携帯電話を持っていない親子にはやはりこれが命綱となるのだった。


▼ハッピー・オールド・イヤー

やけに展開が早いなと思いながら見ていたものだけど、「そういう話」じゃなく「こういう話」なのだと最後にやっと分かった。人と関わりながら生きてく限り避けられないものを知るという話。チュティモン・ジョンジャルーンスックジンの顔を長々捉えたラストカットに、日本でリメイクすればいいのに、誰ならいいかなと思ってしまった。

撮影禁止の書店で写真を撮り「来客の車はその辺に停めさせればいい」と言うジーンの「ミニマムな生活」とは、自分で物を持たず他人に持たせておいてそれを使うということ。でも自分のところだけきれいにしておこうったって、やることやってんだから…だって、人と関わりたいんでしょう?それならそうはいかないという話である。

終盤の食卓でジーンと母親がぶつかる場面が素晴らしい。意見のぶつかり合いとはしんどいものだということが何というか物理的に表れているから(簡単なようで案外これを見せる映画はない)。エムの家で彼と女性がスープを口にする時に風が吹いている場面もよかった。私の好きな類の教育テレビの番組の匂いがした。私の好きなそれは、遠くへ出掛けない旅。自分の周りの冒険。そして自分と他人とが違うってことを知るのだ。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ベネズエラ


ラテンビート映画祭2020のオンライン配信にて観賞。2020年ベネズエラ・イギリス・ブラジル・オーストリア制作、アナベル・ロドリゲス・リオス監督。

ベネズエラ最大の油田マラカイボ湖に浮かぶ小さな集落、コンゴミラドール。この村の話をしよう…との女の声に続いてギターをつま弾く男と物語る男、タイトルに次いで始まる歌は「破滅の夜が来た」。映画が進んで終盤は、見ていなければならないものを見終えることになる、すなわち映画が終わってしまうのが怖くなる。17か月後、かつて700人だった人口が漁の時期でも半分程に減ったという。1年後、国に見放された村は死ぬ。最後に出る文章は「今はそれぞれの場所にいる、コンゴミラドールの人達へ」。

湖上の暮らしは洗髪髭剃りを水中で、洗濯の汚水も床の割れ目からそのまま流すという具合で体の一部が常に水と繋がっているようだ(そういう場面をよく撮っているんだろうけど)。水が汚れたら自分達だって汚れてしまう。翻って私達はどうか。使った水をよそへ捨てているから汚れずに生きていられるだけだ(インフラの話じゃなく比喩としても)。「栄光」やら「勝利」やら勇ましい言葉の躍る国のトップの声に映る、堆積した泥、死んだ魚、寂れた家屋。

映画の作り手がメインキャストに選んだ女性のうち大人達は、共同体に属していながら私にはどちらも「一人」に見えた。「革命さえあれば」とチャベスへの愛…と「保険」の札束に生きている村のまとめ役タマラは常に進行方向を向いて船に乗る。彼女とその一派により追い出されそうになっている小学校の教師ナタリは学校運営費のために子どもらと貝を集めて色を塗る。教室に保安官を呼んでの一幕からは、気がはやって授業どころじゃないのが伝わってくる。「ハンモックを揺らすにも色々ある」といったところか。

そして小学生のジョアイニ。美少女コンテストの会場に流れるBlack Eyed Peas「The Time」が悲しくも奇妙にリアル。「やる気がない」と言われる彼女だけども、やる気がないんじゃなくやることがない、やる気の向かうところがないんじゃないかと考えた。踊っていたら「踊ってないで働け」なんて(大人の影響を受けた)兄弟に言われてしまうんだから。あの歳で、選挙がお金で動いていることも知っている。最後に妙に大人びたその顔に、これはドキュメンタリーなんだと思う。

家庭裁判所 第3H法廷


ラテンビート映画祭2020のオンライン配信にて観賞。2020年アメリカ・スペイン制作、アントニオ・メンデス・エスパルサ監督。
「国の正義は弱者の声に表れる」とのジェイムズ・ボールドウィンの言葉に始まるドキュメンタリー。米フロリダ州の裁判所、主任裁判官は同じショーストレム氏のもとに行われる審問と審理の中から選び抜かれた場の数々が二時間映し出される。まずは「場」の映画であり、その特殊性が次第に見えてくる。一部で慣れさせておいて二部でもってじっくり見せる構成が見事。

一部「審問」では関係者の証言が次々と繰り出される。死期が迫っている自分の両親に会ってほしい、次の感謝祭では遅いとの子に対する母親の希望が放っておかれるのに続き、次の母の「里親の愛着は度を越している」について裁判官が語る里親の何たるか。この畳み掛けなど素晴らしい。このパートでは背後の扉から出入りする人々が映っているのが効果的。「今日できることはここまで」じゃないけれど、大事なのはこの外だから。
親権終了手続きにサインした人々に裁判官が掛ける言葉にはふと、小学校の教員をやめた時に(自身は皆教員である)両親にも同居人にもよくぞやめたねと言われたことを思い出した。尤も親権の場合は何よりまず子どものため、私の場合は身内の心情からして私のための言葉だけども(もちろんそれが引いては学校の子どものためになるわけだけども)。

二部「審理」では親権終了の申し立てが二件じっくりと映し出され、集った人々それぞれの在りようが大変に面白い。一件目において、数分間で新しい証言を引き出すための質問を考える弁護士の仕事ぶり。一部と異なりあまり姿を映されない裁判官の「私には時間も戻せないし現状も変えられません、そしてどちらの言い分にも全面的には賛成しかねます」「我々には分からない絆があるのでしょう」との言葉。
二件目の母親は数分後にやっと映ると机につっぷしている。ここまで見てくると、親側の弁護士が追及するのは親に対し行政が適切なサービスを与えてきたか、主張するのはそれにより又はそれによらず親が変化したかであることが分かってくる。この、行政の責任と自身(あるいは他人)の変化を常に念頭に置くというのは私達にも使える考え方だなと思いながら見た。