The Fight


True Colors Film Festivalのオンライン上映にて観賞。2020年アメリカ制作、エリス・スタインバーグ、ジョシュ・クリーグマン、エリ・デスプレス監督。

アメリカ自由人権協会(ACLU)がトランプ政権相手に起こしてきた多くの訴訟のうちの4件を通じて弁護士の闘いを追うドキュメンタリー。前世紀の言葉で言えば「ゴキゲン」な冒頭から弁護士達によるオフィスの「ツアー」など明るく楽しい雰囲気で進む。時折挿入される非・仕事場面には、いいところを捉えたというよりいつもこんなふうなんだろうな、こういう人なんだろうなと思わせられる。模擬裁判(教員的には模擬授業じゃなく研究授業を思い出させる場面)を経て4人は最後弁論へ。それは終わりなき闘いの途中である。

前日同映画祭で見た「Listen」と同じく、ここでも「時間との勝負」がなされている。中絶が許可される期間を過ぎてしまうおそれがある、20分後に飛行機に乗せられてしまうなど、勝負しなければならないのは勿論国と闘う側である。少女の「命を救ってもらった気がした」との言葉からは、妊娠とはまず当人の命の問題であるという当たり前のことが再確認できる(…のになぜ当事者じゃない者にそれを管理する権利があると思っているのか、と担当弁護士も口にする)。選挙に関する訴訟は期限が次の選挙までと明確なため手早く進むと聞くと、素人としてはやれば出来るんじゃないかと思ってしまう。

トランスジェンダーである弁護士が言うには「ぼくが弁護士になった頃は業界にトランスジェンダーが殆どいなかったから色々なことをやらなきゃならず、テレビ番組に出たり後輩のトランスの弁護士への研修を頼まれたりとかね、だからくそみたいな言いがかりへの訴訟スキルを学ぶ時間なんて無かった」。自分自身のアイデンティティが訴訟の争点になっている側の人間が主張を通すのはとても難しいから、入隊禁止令の訴訟はシスジェンダーの君に任せた方が楽だと彼は同僚に言うのだ。

シャーロッツビルの事件に話が至る前に、「権利とは誰でもその権利を行使できると約束するものです、ACLUの人間が全員それに賛成しているわけではありませんが」とのリーガルディレクターの言葉が入る。事件後には「公式にも非公式にも何度も会議が行われた」そうで、作中取り上げられる意見も様々である。ここに、葉書から電話、メールとあらゆるルートで送られてくるヘイトスピーチを「ネガティブなものも見ないと世界が狭くなる」と受け入れる姿勢やら先のトランスジェンダーの彼の言葉やらが結びついてくる。よいドキュメンタリーとは、今映っているこの人は先に見たあの人だ、とつくづく思わせられる映画だと私は思うんだけど、これも確かにそうだった。

Listen


True Colors Film Festivalのオンライン上映にて観賞。2020年ポルトガル・イギリス制作、アナ・ロッカ・デ・スーザ監督。

映画はごく普通の朝に始まるが、まずロンドンに暮らすこのポルトガル人一家が困窮していることが見えてくる。ゼロ時間契約で貯木場で働く夫と、乳飲み子と共に出勤して家政婦として働く妻。この映画でしっかり捉えられる彼らと関わる市井の人々の顔はどれも穏やかで、困っているなら役に立とうと出来るだけのことをする人も多いが、ステージが違いすぎて全く手が届いていない。だから専門的な「公助」が必要なのだ…って今のうちらと同じである。「今の」じゃなく昔の私が気付いていなかっただけか。

母ベラが乳母車でその日のための食料を万引きする間、段ボールを敷いて待たされている小学生ルシアと乳飲み子ジェシーは近くの住民に心配される。ルシアの補聴器が壊れるが新調するお金は無い。そのことから生じた学校での行き違いにより、夕方にはソーシャルサービスの職員らが三人の子を緊急保護命令でもって家から連れて行く。作中繰り返される「落ち着いて」、ベラは組織の職員からも、支援する人からも、更には組織の「許可」を得て穏当に子と面会したい夫からもこれを言われる、こんな、落ち着いてなんかいられない時に。何もかもが不利なのだ、大方はやればやるほど。

「English Only」とポルトガル語はおろか手話さえ禁止される子どもとの面会に、この国のソーシャルサービスは一体何なんだと思われてくる。映画の終わりにベラは「システムを知っていながらそこで働くのは罪」との言葉を吐くが、一家を秘密裡に支援するのは元職員である。彼女によると、この国のソーシャルサービスは自立支援計画を早々に打ち切り子どもを養子縁組の候補に入れてしまうのだと言う。彼女はこうした支援を受けていること等をSNSに投稿すると逮捕されるからやらないよう注意するが、かりにそれが事実だとしたら、このような話は法に訴えでもしない限り表には出ないわけで、映画が作られた経緯は分からないけれど見てよかったと思った。

燃ゆる女の肖像


エロイーズ(アデル・エネル)いわく「一人は確かに自由です、でも寂しかった」。その母である伯爵夫人(素晴らしきヴァレリア・ゴリノ)が言う「笑い合うのだって一人じゃできない」じゃないけれど、何だって誰かとしたい。その相手とは対等でありたい。その関係内であれば見る、見られることだってコントロールし得る、楽しくなり得る。エロイーズが抱えている炎はその願い、いや怒りである。これって今でも全然叶えられないじゃん、と気付いた瞬間に居ても立ってもいられなくなり映画館の椅子の上で膝を抱えたくなった。

離島の屋敷での五日間、エロイーズとマリアンヌ(ノエミ・メルラン)、使用人のソフィー(ルアナ・バイラミ)の三人の女が入れ替わり立ち替わり調理をしサーブをし、オルフェウスについて感想を戦わせる、ここには確かに「平等」がある。エロイーズの「修道院では皆、平等だった」との言のようなシンプルなそれである。しかし女達が妊娠と堕胎、あるいは妊娠させられるであろう結婚という荷から解放されることはない、「時間を延ばす薬」を摂ろうとも。堕胎措置を受けるソフィーを襲う感情はひとときのそれではなく、女につきまとって離れないものだ。女達によって描かれる、「肖像画」とは真逆の絵が写し取っているのはその恐怖である。

慣例なのだろう「これで見初められ、屋敷で先に私を待っていた」肖像画を男性画家に描かせた伯爵夫人は、本土に渡る目的や故郷ミラノへの思いを語る際「楽しんで悪い?」と優しく笑いながら言う。そんなふうに鬱屈をまぎらわすことのできないソフィーの、最後の朝のマリアンヌへの強い抱擁が作中最も心に残った。階下に下りて行ったマリアンヌが見たものは夫人が戻ったしるしだったかもしれないけれど、果たしてソフィーと同じものを見たのかもしれないけれど、あれは彼女にとっては死ぬまで逃れられない現実のしるしなのだから。

平日の記録


りんごのデザート。
日本で一番混んでるんじゃなかろうかと思っていた池袋のカフェ・ド・クリエが特別店舗として改装オープンしていたので寄ってみた。店舗限定のアップルパイのプレートは普通のものだったけど、お店がきれいなのはよい。
ロイヤルホストの「焼きりんごと塩キャラメルアイスのブリュレパフェ」はトップの焼きりんごからして美味しく、色々な味が楽しめた。

まっさらな光のもとで/私と彼女

イタリア映画祭2020オンライン配信で見たマルゲリータ・ブイ主演の過去作二本の記録。


▽まっさらな光のもとで

2009年、フランチェスカ・コメンチーニ監督。ナポリの夜間中学で国語の授業を担うマリア(ブイ)は作中最初の授業の場面で生徒が誤ったことを書いたページを破ってしまうが、これは彼女がそうした部分を大切にせざるを得なくなり、やがてその大切さに生きるようになるまでの話である。

全てを自分一人で決めて生きてきた(そうせざるを得なかった)マリアが、妊娠7か月で出産したためにただ待つしかない時間を送ることになる(そういう女性が避妊をしないというのが、10年前の映画であることを踏まえても釈然としなくはあるが)。その何も決められない、何も出来ない、何も起こらない時間に彼女に起きる劇的な変化。当初よりあった共同体の意味合いも違ってくるのが面白い。

冒頭マリアと生徒達は学校として使っていた建物から追い出され、その後も教室としてあてがわれた先を転々とするはめになる。話が進むにつれ、教育や出産にまつわる、いわば国民に対する理不尽な仕打ちが見えてくる。彼らは言葉や文学を学ぶことでイタリアの文化を継承しているのに。しかもマリアは「気晴らしだからこそ」大事なのだと生徒に言うのに。いや日本の現状を顧みるに、そういう者ほど国から邪険にされるものか。


▽私と彼女

2015年、マリア・ソーレ・トニャッツィ監督。ぬるい老化ジョークを交わしつつ猫と使用人と暮らす裕福な女同士の恋愛もの。ブイ演じるフェデリカの周囲の男達が歯科医に眼科医というのには何か意味があるのだろうか。彼女はドヌーヴに顔立ちが似ていると前から思っていたところ、作中「ドヌーヴと同じ、魅力的だけど冷たい」と言われるのには、ドヌーヴもこういう役をやればよかったのにと思わせられた。

絶対あのエレベータで終わるなと思いながら見ていたらやはりそうだった。これは私の集めている「登場時には他人同士と見えるカップル」で始まる映画なんだけど、映画がそう見せているもの、作中の彼らが事情から装っているものなど色々な種類がある中、本作の場合は二人がふざけて他人ごっこをしている。共に暮らすアパートの入口から行われるそれの根底には問題が透けて見えるから、解決して終わらなきゃならない。

息子の「父親は若い女と、母親は女と、そりゃあへこむよ」にはその二つが並ぶんだと思わせられる。別れた方がいい関係と別れてはいけない関係とがあるなら、フェデリカと夫とは前者(「女はライバルにならない、その気になるかもしれないが」/「(息子の)ベルナルドは手が掛からなかったな」「六か月寝なかったけどね」…が追い打ちになるのだった)、フェデリカとマリーナ(サブリーナ・フェリッリ)は後者という話である。例えフェデリカによる蔑称問題やマリーナによるアウティングの問題が生じたとしても、すなわちマイノリティの内部では諍いが起こりやすいにしても。

君の誕生日


映画の始め、仁川国際空港に降り立ちタクシーでどこかへ向かうジョンイル(ソル・ギョング)の道のりが「出かける」ようにも「帰る」ようにも見えないのに少々困惑させられたが、その理由は次第に分かってくる。彼はいったん途切れた道に現れたのだと。

韓国の集合住宅に人が出入りする際のピロピロ音は映画やドラマでお馴染みながら、暗証番号を入力している姿が映ることはまずない。それが本作の前半では頻出する。ここがジョンイルにとっても、彼との離婚を考えている妻のスンナム(チョン・ドヨン)にとっても家ではないから、外からの入口=玄関が何度も映る。そこが家になるまでの物語と言える。

照明の使い方などもあり全然家らしくないそこが、他人がやってくると一気に普通の家らしくなるのが面白い…がそれがいいことなのかそうでもないのか私には分からない。(「82年生まれ、キム・ジヨン」同様)弟の妻であるスンナムが台所仕事を一手に引き受けている法事が、ジョンイルの、父親への恫喝で壊れるのに、意外とこういうことによって家父長制に穴が空くのかもしれないと考えた。

親が半額の服を買ってくるのもパスポートに判を押してもらってくるのも、当のスホ本人がいれば何と言ったか分からない(反対に妹のイェソルは、愛があっても気が行き届かない両親によって泣かされることになる)。亡くした者からは何も返ってこない…と思っていたところが、終盤ジョンイルの嗚咽からの展開で、いやそんなことはない、一方通行じゃない、と言ってくるものだから驚かされた。ここには監督の強いメッセージを感じる。

ジョンイルが感情を吐露するこの場面で不意に、強烈に、映画そのものがばらばらになったような奇妙な感覚に襲われた。振り返ればそれは、特定の誰かに焦点を当てざるを得ない「映画」において、本当は誰もが当事者なのだという真実を突きつけられたことによる戸惑いだろう。しかしこれを経て、決裂していたジョンイルとスンナムの間に新たな結びつきが生じる。悲しみとは共有できないものだと思っているなら間違いだ、そうじゃないんだ、方法はあるんだ、という映画だと私は受け取った。

週末の記録


週末に作ったもの。
食べてみたいと言っていたら同居人が探して買ってきてくれた「冷凍」キンパに合わせたのは、韓国風(的?)クリームシチュー。コンソメじゃなくダシダを使って、玉ねぎと蕪と鶏肉と薄揚げを具にして、ナムル二種を添えた。まあまあ満足。
Twitterによくよく流れてきた「ハーベストミルフィーユサンド」には、前日買った猿田彦珈琲アプリコットデニッシュの杏を取っておいてのせた。貧乏くさいけど見栄えがよくなった。