スペシャルズ! 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話


世界一タフじゃなきゃ務まらない仕事人の話に、ヴァンサン・カッセルレダ・カテブがはまっていた。斜めに座って監査局の調査人を迎えたブリュノ(カッセル)いわく「それじゃあなぜ皆はここに連絡してくるんだ、頼るんだ」。映画の終わりに出る「代替手段がないため政府は彼らの施設を暫定的に認めた」との文章に何とも言えない気持ちになった。

例えばよい学校映画には一分一秒がいかに大切かということが伝わってくる場面があるものだけど、この映画もそうだった。ブリュノがジョゼフを職場に送る車内など、寸分も時間を無駄にしないよう行動しているのに、何というかすごく善いものに満ちている。「肩にもたれてもいい?」(の後、もたれる)に「もういいかな」なんて返答しようと揺るがない。

ジョゼフの母親が言うには「人には二種類ある、目を掛けてくれる人達とそうでない人達」。ブリュノの信念は、ともすれば「監禁」されてしまう自閉症の子ども達を少しでも外に連れ出すこと。その出先の、駅やレストラン、あらゆる公の場において、確かに世界は二つに分かれて見えた、レイヤーが違うみたいに。ホテルから逃げ出したヴァランタンを皆が捜して駆けまわる街も。

若者らによる報告書の文章の乱暴さを指摘するマリク(カテブ)が自身は調査人にぞんざいな言葉を使ったり(わざとそうしてやろうという気もあるんだろうけど)、ジョゼフが職場で女性に惹かれていることに気を揉むブリュノが施設の子どもの姉に粉を掛けたりするのは、あらゆる人々が同じようないわば欲望を持っているということの表現に私には思われた。

平日の記録


モンブランの季節。
ドトール珈琲店にて、この日から始まったというモンブランと自家製珈琲ゼリーのパフェ。栗とコーヒーゼリー、案外合う。
更にほうじ茶の味が加わったのが、ロイヤルホストの渋皮栗とほうじ茶のモンブランパフェ。小ぶりながら底のナッツまで多彩で楽しく食べた。

バッド・レピュテーション


シネマート新宿で開催中のロックドキュメンタリー特集「UNDERDOCS」にて観賞。ジョーン・ジェットの人生をまとめた2018年作品。

▽オープニング、親にねだってギターを買ってもらったという話に合わせて女の子がギターを抱える広告写真。ジョーンが実際に見たものかどうか分からないけれど、ああいうモデルはやはり大事だ。ちらとスージー・クアトロの名が出て、ボウイの「Rebel Rebel」が流れて本筋へ(この映画はこの曲で始まると言ってもいい)。

▽「(ランナウェイズ時代の活動について)私達が普通にロックンロールをやりたいんだと分かると、それまで『可愛いね』と言っていた人達が突然冷たくなった」「(当時の日本ツアーについて)日本では大勢の女の子達が歓迎してくれた、でも女の子だけ、だから分かった、日本じゃ女性は抑圧されてるって」。女が「女」の範疇を出ることを許されないのは今もそう変わらず。

▽後半の「ミック・ジャガーがステージで大きなペニスにまたがれるなら、私にもできる」という言葉からも分かるように、ジョーンは女も性の主体であることを訴え続けてきたが、とりわけランナウェイ時代のエピソードの数々には、女が性的な何かを楽しもうとするとそのそばから対象の側に押し込められ消費されてしまうということを強く感じた。

▽ケニー・ラグナがメリル・ラグナに言われたのを始め、ジョーンの素晴らしさを女性パートナーから説かれたというようなエピソードが作中二つほど語られるが、マイリー・サイラスがプレゼンターを務めたロックの殿堂式典の映像でヨーコの隣のポールもパートナーに何か言われていた。何だったんだろう。

▽ビキニ・キルのキャスリーン・ハンナいわく「ジョーン・ジェットを初めて聞いたのは『Crimson and Clover』(トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズのカバー)。代名詞が印象的だった、『彼女』に向けてあんな声で歌えるなんて」。ジョーンは「I Love Rock'n Roll」(アローズのカバー)では性別を入れ替えているから、これは性的な攪乱を狙ったものだろう。

▽私は「I Hate Myself for Loving You」世代なので、映画「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒」で流れた時には血がたぎったものだけど、ここではこれはハーレイがまだ覚醒していない、いや、し始める時の歌なんだということを、この映画を見ながらふと思い出した。ジョーンはあくまでも「最初のライオット・ガール」で、皆が続くんだ、続かなきゃならないんだって。

マイアミ・ブルース/サム・フリークス

特集上映「サム・フリークス Vol.9」にて二作を観賞。


▼「マイアミ・ブルース」(1990/アメリカ/ジョージ・アーミテイジ監督)は詐欺師の男と大学生の女のしばらくの物語。

「何歳?」に始まり「『ペッパー』?」の笑いで締められるジュニア(アレック・ボールドウィン)とスージージェニファー・ジェイソン・リー)の出会いの一幕。相手の本名を知ったら自分も本名を知らせる、ここに彼の公平さが表れている(彼女がそれを知るのは映画の最後というロマンチック具合)。じゃあ始めましょう、からのスージーの大股開きに笑いが起きていたけれど、そういえば同じジョージ・アーミテージ監督の「ポイント・ブランク」(1997)でもやたら心に残るのはミニー・ドライヴァーのベッドでの振る舞い、というかベッドへ行き来する姿だったものだ。

「死んだら最高の場所に行く」と歌う「Spirit in the sky」で円環になっているこの映画は、この世にそぐわなかった男が一人消えたというふうにも取れる。アーミテージの映画に出てくる男達は何か言いたげなくせに何も言わない口元からして凡そ似ているが、私が知る中ではこのジュニアだけがその根を観客に見せる。「何が欲しいのか分からない」などと自身の思うところをスージーに言葉にして伝える(彼女はそのためのキャラクターにも見える)。五万ドル準備すればバーガー屋だがか開けるという彼女にそれをやる意味は?なんて尋ねる。意味を考えてしまう男なのだ。「指を折れば死ぬことを知っていたら殺人犯だ」なんて口にするホーク(フレッド・ウォード)と案外似た者同士なのではと思わせる。


▼「サム・フリークス」(2016/アメリカ/イアン・マカリスター・マクドナルド監督)は田舎に残った少年と後にした少女を含むはみ出し者らの物語。

マット(トーマス・マン)の後頭部に始まるオープニングの一幕の後に「Some Freaks」とタイトルが出て、フリークスとは他者によって作られるものだとつくづく思う。でもおかしいな、どんな映画だって、いやはみ出し者を描いている映画なら何だってそのことが示唆されているはずなのにと考えながら見ていたら、そのうち分かってくる、彼とジル(リリー・メイ・ハリントン)は目を入れること、痩せることによって他者による自分の像を「普通」へと変える、これはそれによって何が起こるかという話だからだ。

エンドクレジットのニール・ラビュートの名前にそうだったと思い出す。はみ出し者が「普通」のことをするのを見る時、私達は見慣れないと感じて居心地の悪さを覚えるのではないか。それはおかしいのではないか。これはそこを突いてくる映画である。変貌した自身を鏡に見るジルは、前回の上映作「少女ジュリエット」を撮ったアンヌ・エモンの「ある夜のセックスのこと モントリオール27時」「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」の女達と繋がっている。

「イケメン」と言われるパトリックもまた他者による自分の像に悩んでいる。ああいうことは確かにあると私も肌では思うけれども、女が言動に出すことは男より圧倒的に少ないから顕在化することはそうないとつい思ってしまう。しかしジルとの場面に心のどこかで彼に優しくしてあげてほしいと願ってしまう、そんな気持ちこそが差別を生んでいるのだ。

「マイアミ・ブルース」と「サム・フリークス」を続けて見ると、前者のジュニアと後者のマット、男二人はいずれもこのくそな世界を生きるのに女が必要だと思っているような感じを受ける。それを愛と定義づけて大切にしているというのがより適切か。一方で女達にはそれがない。そんな彼女達は歌を歌うのだった。

週末の記録


京王アサヒビアガーデンの最終日に滑り込み。混んでいたら帰ろうと思っていたけれど空いていた。こちらとしては都合がいいものの寂しくもあり。
お酒は私がビアドロップス、同居人は飲みたいものが売り切れで冷酒を頼んだらこんなコップに入ってきた(笑)


知人に茶豆をたくさんもらったので、蒸して食べる他、同居人がしんじょを作ってくれた。パプリカと大葉入りで美味。
ラ・フランスのパフェも作ってもらう。セリアで買った100円の容器に下からグラノーラギリシャヨーグルト、レディボーデン。写真じゃ見えないけど最後にラ・フランスの合間に茶豆をトッピング、これが案外合う。


馴染みの新宿メトロ食堂街が今月末で閉館というので、ゆっくり食事しておこうと(ちゃちゃっとだからね、大抵)レストラン墨繪へ。
すみのえランチは鴨に始まり牛蒡の冷製ポタージュ、白身魚ポワレで満足。パンもおかわりしてお腹いっぱい。

行き止まりの世界に生まれて


そうなんだよね、山の映画やスケートボードの映画はカメラマンもその達人なんだよね、しかもこの映画は撮影している監督が仲間なんだよねと見始める。ロックフォードをスケートでゆく青年達は、街中に人どころか車もまばらなためか(早朝だからかと思いきや後の真昼間の場面でも同様である)異なるレイヤーに存在しているように見えた。しかし後に映される施設に残されたスケートの跡が、彼らが確かに街に生きていることを示していた。ちなみに終盤映るスケートの跡はキアーが購入した車の後部をレッジとして自分で付けたものである、まるでサインのように。

強い日差しの下のカメラを持つ腕の影から父親の抑圧に地面に転がるキアーに差し伸べる手など、監督であるビンと皆の関わりが序盤より映像内にごく普通に存在している。様々な形の自撮りで登場もする(これがなかなかいい)。終盤にはキアーに「ぼくが君を撮るのは同じように父親に暴力を受けた自分に重ねているからなんだ、この映画はぼくのためのセラピーなんだ」と明かす。映画の終わりに映像と文で示される彼、彼女らの現在が、この映画を作った効果によるものだったらいいなと思う。

荒涼とした(そのように撮られた)とある家の中で、監督の異父弟が「閉め忘れると殴られた」と父親が死んだ今も全てのドアを閉めて回っている。監督が殴られて恐ろしい声をあげていたのがトラウマになったという話もする。この辺りから明確に、この映画が家庭内暴力を扱った作品であると分かってくる。

監督は「今日は撮られる側に回る、ぼくのリアクションを撮ってほしい」と先の実家で母と向かい合う。ここでは彼女は夫の暴力の被害者であり彼の暴力から子を守らなかった加害者であり、監督の方は被害者であると同時に「女性の暴力被害が多すぎる」と認識する大人である(後者でもあることは、ニナとの会話からだけじゃなく、ザックの「そんな女は殴られて当然だろ」の後に母が首を絞められた話を聞いた時の自身の顔に切り替えていることからも分かる)。「思い出さないようにしても意味がない」と言う母と監督はカメラの前で心の内を晒し続ける。

この映画は結果的に、家庭内暴力が表に出にくい理由を述べることにもなっている。当人や仲間は「浮気した後に踏み込まれた」「暴力を振るった後に怒声を浴びせられた」といったような場面ばかりを話したり録画したりして強調するし、被害者は事を荒立てるのに及び腰になる。そんな中、監督は自身の異父弟の姿に始まり暴力の跡を少しずつ掬って捉える。ザックやキアーの話、ニナの傷や証言、カメラの外から「もう五分経ったぞ」と恋人に口を挟まれた時のキアーの母の顔。

助手席のニナに監督が「なぜ君に暴力を振るうのか、ぼくが彼に聞いてみようか」と訊ねる場面には衝撃を受けると同時に嬉しかった(映画を作っている時だって、人間は目の前の誰かにああして働きかけるものだと思うから)。しかし、もしも監督に一つ質問できるなら、彼女が断った後の「だけど」でちょうど当のザックが戻ってくるのはまるで脚本のある映画のようだったけれど、それに続けて何と言おうとしていたか知りたくなかったのか、後で聞く機会は無かったのか、敢えて聞かなかったのか、知りたく思う。

シリアにて


「換気の悪さに息が苦しくなる映画」というのがある。近年じゃあれもそうだった、と思い出してみればこれも元シリア兵の監督がシリア人移民・難民の労働者を描いた「セメントの記憶」だった。本作では窓を開けてもいるし換気扇だってありそうだけど、セリフで説明される臭いトイレ、鍋を焦がしての火事寸前、砂だらけの床と息が苦しくなる。そんな閉塞感の中、突然侵入してきた男達の手によって一気に、本当に一気に開く、あのいわば風穴の暴力性。

市街戦の只中のとある共同体の、ある朝のタバコから次の朝のタバコまでを描いた、繰り返される日常の物語である。家を仕切る母親オーム(ヒアム・アッバス)は「私の家なのになぜ出ていかなきゃならないのか」と粘っている。他の者の心の内は色々で、遊びに来ていたところが帰れなくなった娘のボーイフレンドなどは当初一緒に閉じ込められていることを楽しんでもいる。しかし例えば、一番下の息子が祖父を針で刺すのは追いかけっこの楽しみを求めてというより心の辛さからに思われた。

部屋を爆撃され避難してきているハリマ(ディアマンド・アブ・アブード)の「あなたを尊敬しています、勇敢な女性ですから」へのオームの「皆そう」とは、ただの「皆」だったのか「女性は皆」だったのか。字幕に反映されていないということは前者なのか。後にハリマはオームの勇敢から程遠いふるまいを非難するが、「自分を迎えに誰かを寄越すそうです」に「無責任だ」と責められた少年が言うように「悪いのは戦争」なんだから心の行き場が無い。

しかしこの映画を見ながら引っ掛かったのは、暴行する男はあんなにもたもたしていないに違いないということ。作り手の優しさ…ではないよね、ああいうのは。