幸せへのまわり道


映画は「君自身がやることが大事」(積木を形の合った穴に入れるってことでもね!)と歌うフレッド・ロジャース=ミスター・ロジャース本人の映像に終わる。確かにこの作品には、対話はあくまでも切っ掛けでありその後の全ては自分自身の中で起きる、起こすということが描かれている。子どもだけじゃなく、あるいはましてや、「赤ん坊がいるにしては歳をくってるな」「そんなに歳じゃない」年齢であるロイド・ヴォーゲル(マシュー・リス)の中では起こり過ぎると言っていいほど起こりまくる。文才のある彼はそれを綴り、登場時に語っていたように「ほんのたまに、世界を変え」た…だろうか。

ロイドの「だってあなたは『ミスター・ロジャース』を演じているんでしょう?」へのフレッド(トム・ハンクス)の返しから、この映画がはっきり見えてくる。フレッドとミスター・ロジャースとの一致が私達に見せつけられる。「人形と喋るだなんて」と口にするロイドの目の前でライオンのダニエルとフレッドが同一であることが示される。ロイドが体験する地下鉄の一幕、レストランの一幕、いずれも彼が彼でしかないことを表している。後者に至っては、フレッドの「カメラの向こうのただ一人の子どもを見て話している」が実際に行われる。「演技をしていない人」を演じるトム・ハンクスから少々の狂気が感じられるようで面白かった。

ロイドの父(クリス・クーパー)や義兄は会ったばかりのフレッドに「射撃がうまいって?」「特殊部隊にいたって?」などと尋ねる。ドキュメンタリー「ミスター・ロジャースのご近所さんになろう」によると実際に多かったというああした噂は、「人は優しい人間など存在しないと思っている」ことの表れだ。作中のロイドだってそう、現在の社会だってそうなんだから、あれを織り込むこと、とりわけそれを口にするのが男性二人であることには作り手の意図が感じられる。男性は優しい人間はいないと思っているようだけどそんなことはない、というアンチテーゼだ。またこの映画はロイドの著作を原作として「自分を捨てた父親を許す」過程を描いているわけだけど、父とのやりとりに「おれはママの仕事はしない」「ママの仕事なんかじゃない」なんてものを入れ、それに沿った妻との会話で締めた辺りにも、親子や男女についての意識が窺える。

「ミスター・ロジャースのご近所さんになろう」で取り上げられたものを見る限り、エディ・マーフィーが行ったのを始めとする「ミスター・ロジャース」のパロディの数々は現在では古く見えるが、本物の方はそうでない。「優しさが魅力とされる時代を作りたい」との精神は今こそ必要だと思ったものだ。今回の映画はスタッフがモニターを消し、ハンクス演じる一人に集約されたミスター・ロジャースが「ピアノの低音部をまとめて叩く」ことをするのに終わるが、私はあの一幕を、優しい人間は確かに存在する、ただしそこには強さや努力が必要なのだというメッセージだと受け取った。

週末&平日の記録


としまえん最後の営業日に出向く(園内には入らず)。色々思い出がある。


作ってもらって初めて食べたもの。
夕食の冷汁に乗っていた卵の黄身の天ぷらは、中がねっとり柔らかい。冷凍してから揚げたんだそう。
韓国で流行っているというグリークモモは桃をくりぬいてギリシャヨーグルトを詰め、グラノーラとはちみつを装わせたデザート。後の二つが桃に合うこと。


美味しく食べたパン。
先週テグヨンニで食べたのを参考に同居人が作ってくれた、韓国ふうエッグトースト。写真じゃそう見えないけど卵はふわふわでベーコンも入って美味しかった。パンをバターで焼くのが肝心とのこと。
練馬に行った際に豪雪堂で買った、看板商品の豪雪コッペ。カスタードクリームと生クリームにフルーツ、全てが柔らかくて甘かった。

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー


「リフトの客評価が低い」モリー(ビーニー・フェルドスタイン)は、エイミー(ケイトリン・ディーヴァー)以外の運転する車に乗るのが苦手である。「私達には多面性がある、皆に私の色んな魅力を知ってほしい」と願いつつ自分は周囲を見ようとせず、世界を恐れて殻の中に閉じこもっている。そんな彼女が一夜にして、色んな人の車に乗ってひとりよがりから脱却し、最後にはエイミーから車を譲り受け自分でハンドルを握るようになる。

この映画は私には、このあまりにも筋の通った一本の柱以外が陰に隠れすぎてしまっているように感じられた。加えてクレジットで製作総指揮にウィル・フェレルが入っていると知ったせいかもしれないけれど、オープニングの瞑想シーンなど今っぽく見えるようでいてウィル・フェレルの出てくる映画みたいだと思った。「実は皆もいい大学に…」というのもそう、ああいう考え無しな要素を話の曲がり角にするのはウィル・フェレルのセンスに通じるなと思った(彼の場合そういうところにエネルギーがあるのであって、悪いと言いたいわけではない)。

モリーとエイミーが互いを褒め合えるのは互いを知っているから。あんな素晴らしい関係を築いているのに、その外には、少なくともモリーは目を向けていない、知ろうとしていない。最後に彼女が友の背を見る場面にああこれはこういう映画なんだと思った。関係は閉じていちゃダメなんだっていう。その後のいわば外し、落としは、私にはセンスがいいというよりも逃げているように感じられた。その他の、例えば殺人鬼のくだりなども。

週末の記録


土曜日は紀尾井町のプリンスギャラリー最上階のオアシスガーデンにてハワイアンフェア。注文したのはココナッツ風味のフライドライスに海老をのせたシュリンプアントレと、蜂蜜とこれまたココナッツシロップをかけるハワイアン・ダッチベイビー。海老など特に美味しく、低めの椅子からの眺めも素晴らしく、楽しかった。


日曜日は渋谷のTEgg.42(テグヨンニ)で韓国式エッグトースト。注文したのはダブルチーズベーコンとエビアボカドのチキンコンボに、パッションフルーツエードとハイネケン。私のパンは丁度大好きな耳のところで嬉しかった。

この土日は、今年行くはずだったハワイと韓国の埋め合わせを少しでもと同居人がお店を考えてくれたのだった。よい週末だった。

思い、思われ、ふり、ふられ


映画が始まるや、四人それぞれの心の声を押し出してくる作りが異様に感じられ驚かされる。でも次第に分かってくる、これは「口に出すか出さないか」の話なんだって。尤も高校生の彼らの「口に出すか出さないか」問題は四人の間、それこそタイトルの「思い、思われ、ふり、ふられ」の間をぐるぐる回るのみである、当初は。

親の再婚により家族になって云々という漫画は多々あるけれど、ここでのそれは、子どもには自分の環境をどうにもできないということの表れである。序盤に朱里(浜辺美波)が母親(名前はなし/戸田菜穂)に対して声を荒げる場面からずっとそう思っていたら、終盤彼女が「私たちはまだ高校生だから無力」とちゃんと語ってくれる。

最後には理央(北村匠海)が両親に気持ちをぶつけ、朱里も母と笑いながら本当の気持ちを話し合う。この物語は、四人が(「思い、思われ、ふり、ふられ」の外に在る)親に自分の気持ちをぶつけられるまでに、恋を通じて成長する過程を描いている。ただ作中彼らと向かい合う大人を朱里の母だけにほぼ集約させているのは、原作は未読だけども少女漫画では娘と母の関係に重きが置かれるからだと思うけれど、映像で見るとやはり不自然な気がした。

祭りの晩の浜辺美波の顔の撮り方がすごい。よくあんなに醜く映したものだ。この作品の中で朱里の醜さ(とされるもの)が最も表れているのがあの場面だからというのは分かるけど、世の中もっと醜いことが死ぬ程あるし、お前呼ばわりする元彼にあんなふうに言われる筋合いは無いね!と思ってしまった(原作では多分、彼とのあれこれももっと詳しく描かれているんだろう)

平日の記録


ソフトクリームで休憩。
メトロ食堂街の豆とろうにて豆あんソフト。苦手な白玉を抜いてもらって、初めてのきなこいんげん餡をトッピング。美味しかった。
コメダ珈琲店ではソフトクリームに練乳と粉糖の「まっしろノワール」。蜂蜜も挟まって甘くてコーヒーに合う。

ポルトガル、夏の終わり


始まると黒いスクリーンにクレジットが出てまず音だけが、という映画はよくあるけれど、ここでは白に黒字。眩しさに、目を覚ましてよく見てねと言われているようだと思った。

私が確認したのは、時間と場所を共にする時、人はそれぞれ局面を持ち寄っているのだということ。大抵は自分の局面であるが、原題である「フランキー」(イザベル・ユペール)に自分の局面は無く、それゆえ他人の局面が心にある。また彼女を愛しているため自身の局面を持たない夫のジミー(ブレンダン・グリーソン)のような者もいる。二人が一体であろうとするベッドシーンは彼に「フランキーの後」が無いことの比喩のようだった。事前のボタンを外すシーンがいい。

序盤、数人の中からフランキーがふと離れて森の中へ入っていくシーンに、この他人事感、と思っていたら、この映画は次に彼女が一人歩く姿をきちんと見せるのだった。オープニングのプールサイドからフランキー、また皆の靴が印象的で…というのは、どんな靴を履くかはその人がどのように歩くかを表しているから…ジミーと親友の(マリサ・トメイ)は彼女を支えるためにスニーカーを履いているようだと思った。

私がホン・サンスの映画を見なくなったのは、セックスにこれが無ければ楽しいのになあ、と思うその要素が彼の映画を見ると頭の中から引きずり出されるからで、アイラ・サックスの映画にこれまでそれを感じたことはなかったんだけど、この映画には少しあった。厳しくする相手、甘くする相手を間違えているんじゃないかとでも言うような。